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hitonotuma28

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)二十八 「防御策」

 もしもう一度風間夫人から同じ襲撃を受ければ、博士は殆ど防御する事が出来ないかも知れない。そうして泣く泣く風間夫人を妻にするかも知れない。正しく云えば、風間夫人に夫にされるかも知れない。

 夫人が己を知らないのに反して、博士の方は良く己を知って居る。とても自分が二度目の襲撃には、敵し得ないと思うので、色々とその防御策を考える様子であったが、何か旨い事を案じ出したと見え、
 「爾(そう)、爾」
と呟いて、直ぐに伴野夫人の許へ出掛けて行った。何の様な策かは知らないが、自分ながら我が智慧に感心した様に、ホクホクと笑み返って居る。

 是と引き違えて、イヤ博士が化学室を出る少し前に、伴野夫人は彼の槙子の婚姻證書を持って、輪子の口を塞いでしまおうと云う積りで、此の家へ来た。丁度博士の出掛けたのは、夫人が輪子へ面談して居る時で有ったので、博士と夫人とは掛け違ってしまった。

 それはさて置いて、輪子は伴野夫人を敵(かたき)の末の様に思って居るので、渋々に出て逢ったが、夫人の方は輪子の機嫌などには、気づかいもしない。第一に婚礼證書を輪子の前へ、差し付ける様に出して、

 「貴女は以前から、槙子の事を、波太郎と正式に結婚はしなかった様に、疑って居る相ですが、是れを見て何うか疑いをお晴らし下さい。」
と膠(にべ)も無く云った。輪子はそうと許り思い詰めて居た事が、そうでは無いと分かったので、少し失望もしたが、最早やこう證文まで示されては、降伏しない譯には行かない。けれどまだ毒言を蓄えて居る。

 「けれど夫人、その證書では、槙子が波太郎を愛して結婚したのか、将(は)た初めに強姦せられて、その恥を隠す為、止むを得ず結婚したのかどうかは分からないでしょう。」

 夫人は余りの腹立たしさに、暫(しばら)くは、口も開くことが出来なかった。
 漸くにして、
 「その様な事を誰が云います。」
と問うた。輪子は少しも躊躇しない。
 「風間夫人が云いましたよ。」

 何の根拠も証拠も無しに、この様な事を言い触らすに至っては、最早や相手にならない。本当に箸にも棒にも掛らないと云う者だ。
 夫人「貴女や風間夫人は、人の悪口を云って、何れほど自分の品格を下げるかと云う事さえ、知らない方ですから、もうお話は是までです。

 その様な言葉で槙子へ傷が附くか、それとも貴女方御自身へ傷が附くか、何度でも人前で繰り返して御覧なさい。容易に御合点が行きましょう。私は父上へお目に掛って、ハイお話は父上と致しますから。」
と云い、彼の證書を取納めた。

 輪子は先刻風間夫人から、父博士が此の夫人を妻にすると聞いたのを全く真実と思って居るから、大いに失望させる積りで、
 「夫人、貴女はもう、今までの様に父の後を追い掛けても無益ですよ。父は風間夫人を後妻にする事に、縁談が極まりました。何うか内山夫人へもそうお言付けを願います。」

 夫人は耳にも掛けない。そのまま立ち去って玄関まで来て、博士は何所に居ると取次の者に問うた。先刻散歩に出て未だ帰らないと云われた。それでは出直す外は無いと、非常に不愉快に帰ってしまった。

 博士は此の前に、既に夫人の家に着いた。
今は我が家も同様に、気兼ねの無い事と為って居るので、静かに応接間へ通って見ると、伴野夫人も内山夫人も見えない。唯だ片隅の長椅子に槙子は眠って居る。何故に眠っただろう。

 実は槙子は伴野夫人に彼の婚礼證書をを見せて以来、何か又一層の心配が出来た様に、打ち鬱(ふさ)いでのみ居たが、夫人の出た後で独り潜々(さめざめ)と泣いた末、泣き草臥(くたび)れて、我知らず眠ったのだ。

 内山夫人の方は、二階で編み物を仕て居て、降りて来ない。博士はそうと迄も知る事は出来ないけれど、槙子の膝に未だ湿ったハンケチが有るのを見て、泣いて居た者と合点が行って、
 「爾(そう)、爾」
と云って立って居た。

 その気合に感じたのか、槙子はフと目を覚まし、
 「オヤ貴方でしたか。何時の間に私は眠ったのでしょう。」
 見開く目にも、未だ泣いた痕が良くは消えない。博士は不憫を催して、
 「泣いた後で眠ったのだろうが、泣く時では無い、喜ばなくては成らない。成ほど此の国で知人も少なく、心細くは有ろうけれど、ナニ丈夫さんが夫と為り、私も今まで通り父同様の積りで居るから。」 

 槙子は気は晴れないけれど、幾分か顔の愁いを隠して、
 「イイエ、喜んで居るのですよ。貴方には済みませんけれど。」
と云うのは、波太郎の事を忘れなければ成らない身と為るのを、言譯する意味だろうと博士は察した。併し、人から言譯けを受けるのは、博士が嫌いな事の一つで有る。

 単に、
 「爾(そう)、爾」
と云って打ち消し、話を全く転じて、
 「伴野夫人は何所へ行かれた。」
 槙子「オヤ、輪子さんに逢う為に、貴方のお宅へ先刻出向きましたが。」
 博士「それでは途中で行き違ったかも知れん。」
と云い、早や我が家を指して此の室から飛び出そうとした所へ、丁度夫人が帰って来た。

 博士は前置きも何にも無い。直ぐに、
 「夫人、夫人、婚礼が一つ有れば、二つ有る事になります。私は内山夫人を貰いに来ました。妻に、妻に。」
 夫人は驚き且つ笑って、
 「何と仰有ります。」

 博士「早く後妻が定まらなければ、私は風間夫人に何の様な目に逢うか知れません。一人定まった妻が有れば、幾等風間夫人が物覚えが良くても、その上の妻には成ろうとは云わないでしょう。」
と云って、有った次第を博士一流の切れ切れの言葉で説明し、夫人は風間夫人の余りに大胆な振る舞いに呆れて、何とも云う事が出来ないで居る間に、

 「私しも丈夫さんと一緒の日に、一緒の教会で婚礼します。成るべく婚礼を急ぎましょう。それまでは化学室へ閉じ籠って、風間夫人には逢いません。知らせもしません。そうして婚礼の済んだ事を、直ぐにロンドンから手紙で云って遣る事にします。エ、面白いでしょう。風間夫人が何の様に驚きましょう。嬉しいでは有りませんか。」

 早やその時の来た様に喜んで居る。



次(本篇)二十九

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