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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         
    (本篇)三 「女難の相」

 初めて逢って直ぐに久しい友達の様に懐かしい想いのする事が、何うかすると有る。
 「一見旧知の如し」とか。「一朝にして百年の思いを為す」とか云うのはこの事だろう。丈夫が槙子に逢った心持が全く之なんだ。

 唯だ見た許りで、彼の心は身体から抜け出して、槙子の心と一塊に融化(とけあっ)た様な気がする。けれどその融化(とけあっ)た中に、何だか一つ融化(とけあ)い兼ねる所が有る。丁度滑らかな油の中へ一滴の水が入って居る様な者だ。或いは又精密な機械の中へ、一粒の砂利が入った様な者だ。総体は非常に調和して居るけれど、唯だ一点、何だか気持ちが悪い。

 此の気持ちの悪い点は何だろう。
 「人の妻」と云う感じである。イヤ、人も有らうに取り分けて波太郎の妻と云う感じである。若し此の女が、丈夫の日頃尊敬して居た人の妻とか云うなら、こう異様に感じないかも知れないが、唯だ「波太郎」と云う名を思い出すと、直ぐに針で刺される様な痛みが心の底に起こる。

 若し更に此の女が、誰の妻と為った事も無い清浄無垢の女ででも有ったのなら何うだろう。丈夫は殆ど此の女の傍を離れる事が出来ないかも知れない。此の女より外の事は何も思い出さない事に成るかも知れない。けれども仕方が無い。何所を何う考えても波太郎の妻は、何所までも波太郎の妻だ。清浄無垢の処女に復(かへ)り様が無い。

 尤も文明の国では総て、
 「夫婦は二世」
と云う事を云わない。夫婦は二世の契りで無くて、唯一世だけの縁である。良人が死ねば妻は直ぐに元の処女に帰るので、誰と婚礼しようが少しも構わない事に成って居る。両夫にま見えた所が貞女で無いとは云われない。

 前の夫に対しても貞女、後の夫に対しても貞女と、こう二重に貞女として褒められる婦人は幾等も有る。宛(あたか)も他の国で、妻を失った夫が更に新しい妻を迎えて少しも構わないのと同じ事だ。従って又未婚の処女を妻にするのも、人の寡婦を妻にするのも、世間の見る目で少しも変わりが無い。唯だ寡婦で無くして、離縁された女を娶る事を嫌うのだ。

 前の所夫が未だ生きて居るのに、その女を妻とするは道徳の目から見て姦通と異なる所が無い。
 丈夫は此の様な社会に育ち、此の様な習慣を常前(あたりまえ)と心得て居るのだから、別に処女と寡婦との間に、大した道徳の上の違いが有る様には思わない。だから槙子が、波太郎の寡婦でさえ無ければ、即ちその他の人の寡婦でさえ有れば、或いは、別に針に刺される様な感じもせずに済んだかも知れないが、唯だ波太郎の妻と云う丈に誠に辛い。

 辛ければ颯(さっぱ)り思い切りさえすれば好い事だが、悲しい哉、心が既に、イヤ此の女を波太郎の妻と思いも寄らないうち、既に既に心が脱出てしまったのだから。
 是を思うと彼の波太郎自身が、丈夫を評したのは名言で有った。丈夫は正直過ぎる丈に、世間を多く知らない丈に、女の為に身を過(あや)まる恐れがあると。

 全くそうだ。気質を云えば第一流の人物で有るけれど、之を女難の相とでも云うべきで有ろうか。今の所で何所へ転んでも、丈夫の身に好い事は無い。輪子の方へ転べば、悍馬の様な恐ろしい女を妻にし、生涯を不幸の中へ埋めるのだ。槙子の方へ転べば、イヤ此の方へは「波太郎」と云う念が存する間は、転び様が無いけれど、若しも転べば生涯針で刺されるのだ。

 それも我慢出来るとしても、若しも輪子が疑った通りに、此の女が真の波太郎の妻で無く、野合の末に子が出来たと云う様な汚らわしい妻ででも有ったなら、それこそ正当の寡婦を妻にするのとは違い、全く汚らわしい者を迎えるので、丈夫一身の清浄が消えてしまうのみか、清い伴野家の家名に泥を塗るのだ。

 「家名」と云う事を、命よりも大事にする此の丈夫が、生憎此の様な危険な場合へ臨む様に成って来るとは、実に天道が恨みだよ。
 けれどまさかに此の天然に品の有る清げな槙子が、野合の果てと云う様な堕落者では無いであろう。(有るか無いかは分かる時も来るだらうが。)

 その様に堕落すべき女とは、何う見ても思われない。やがて槙子は乳母の様な女を連れて、再び丈夫の傍に現れ、
 「博士が御親切に、大層なお金を送って下さって、乳母を雇って赤ん坊を守させて来いと云って下されましたから、此の通り雇っては参りましたが、乳母諸共にお世話になるのは余り御親切に甘え過ぎますから、乳母は此の国へ着けば何時でも断る約束です。」

 乳母も自ら説明した。
 「丁度私は蘇国(スコットランド)へ帰る所ですから、船賃だけでも助け度いと思い雇われました。赤様のお顔をお見せ申しましょうか。阿母(おっか)さんに良く似て居ますよ。」
と云い、早や赤ん坊の頭巾を脱がせ始めた。
 「イヤ折角眠って居る者を、目を覚まさせてはいけないから。」
と丈夫は慌わてて押し留めた。

 是より上陸し、雨中を馬車で定めた宿へは着いた。丈夫の初めの考えでは、宿まで送ってその身は立ち去り、明日又迎えに来て汽車まで送り届けると云う積りで有ったが、少し考えが違ったと見え、両女が次の間へ退いて荷物を片付けなどしている間に、自分は槙子の座敷へ入り、ここにボーイを
呼び寄せて、今夜の晩餐の献立書きを取り寄せ、そうして女の口に合い相な珍味を幾品か加え、その上に、食事は食堂へ行かずに為るから、此の部屋へ持って来る様にせよと命じた。

 凡そ卅分も立ち、その部屋の用意の出来た所へ槙子は出て来た。乳母と赤ん坊とは出て来ない。乳母が酷く疲れたから、早や先に寝かせたとの事である。丈夫に取っては悪くは無い計らいである。



次(本篇)四

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