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hitonotuma30

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 10


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十 「竹子と云ふ伯母さん」

 化学が是ほど嫌な者とは思わなかった。瓶から出て来ぬ先から、博士が是ほど蒸騰(むせのぼ)る異様な臭気は、とても風間夫人の耐(こら)える事の出来ない所である。一滴落としてさえ是ほどだから、もし三滴落としたら何の様になるだろう。

 夫人は殆ど勇気が挫け掛けた。けれどここで弱い気を出しては、たった今云った言葉が嘘になるのみか、自然大願の成就にも影響する譯だから、身を大願の犠牲とする程の積りで、先ずハンケチを取り出して、一方の手で口から鼻の邊を確(しっか)と覆(おお)って居て、そうして後の二滴を垂らしたが、本当に息が詰まる様で有る。

 博士は此の様を見て、大いに満足した。口には出さないが、心の底で「爾(そう)、爾」を繰り返して居る。やがて夫人に向かい、
 「実に奇妙では有りませんか。臭気も色も何にも無い、見た所では蒸留水の様に見える液の中へ、他の同じ透明な液を垂らすと、その通り臭気を発して、泥の様な濁った液と為ってしまいます。

 是で見ると昔の人が、泥や鉛などを煉(ねっ)て、金を作る事が出来ると思ったのは無理は有りません。御覧なさい。私の是から試験するのを。是は今のより余ほど強いのですから、爾(そう)、爾、しっかりとハンケチを顔に当ててお出でなさいよ。」
と言って置いて、何か又二種の液を混ぜ合わせたが、今度は実にもっと大変で有った。

 勿論臭気も臭気だが、それよりも、もっと甚(はなは)だしいことには、その立騰(たちのぼ)る煙だか湯気だかが、宛(まる)で咽喉(のど)を抉(えぐ)る様で、是ばかりは、慣れない者には、とても我慢が出来ない。

 夫人は続発する咳に咽(むせ)入って、殆ど死ぬ様な苦しみで、如何なる場合にも、何とか然るべき言譯の言葉を作る、便利至極な口さえも、一語をも発する事が出来ず、そのまま床を匐(は)う様にして、此の部屋を逃げ出したのは、咳込(せきこ)んで、身を伸ばす事さえ出来なかったからだ。云わば必死の苦しみで、野心も大望も思い出す余地が無いのだ。

 博士は声を出して、
 「夫人、モソッと見てお出でなさい。是からが、私の発明し掛けて居る、最も劇(はげ)しいのに成りますから。」
 中々此の様な言葉が、耳に入る所では無い。何所まで逃げて行ったか、多分は庭の外へまで、新しい空気を吸いに出たのだろう。

 博士は後に、殆ど腹を抱えて笑った。善人の様だけれど、此の様な事には中々意地が悪い。イヤ善人だけに悪人へ対しては、少しも容赦を加えないのだ。アア是で好い。是で好い。生憎(あいにく)此の化合は、慣れた人へは太して感じないから、此の次には別の品を用いなければ成らない。

 ナニ私と内山夫人とが婚礼する時まで、毎日新しい品を用いても、種は尽きない。早く之に気が附いて好かった。もう何も夫人の襲撃は恐ろしい事は無い。」

 こう云って静かに窓を開き、部屋の内に満ちて居る瓦斯(ガス)を、外へ出した。
 「併し慣れて居る身にさえ是ほど苦しいのだから、初めての夫人には、非常に利いただろう。事に依ると強過ぎたかも知れないが、ナニ人体に害を残すので無いから、構いはしない。爾(そう)、爾。」

 此の様にして、先ず何事も都合良く(イヤ風間夫人に取っては、都合悪しく。)進んだが、唯だ一事、異様なのは、肝腎の槙子である。何やら深く気に掛かる事が有る様に、日々打ち鬱(ふさ)ぐ事が酷く成って行く。

 尤もその様な状態を見せまいと、母御に向かっても、勉めて機嫌好く自分の心を引き立たせては居るのだけれど、物慣れた母御の目には、その勉めて居る様子が自ずと分かる母御も、実は心配である。ハテな、全体槙子が正式に結婚をして居ないと疑われた時に、痛く驚いたのは何故で有っただろう。

 何しろ私の問を誤解した為で有った事は明白だけれど、誤解する余地の無い言葉を、何の様に誤解したのだろう。寧(いっ)そ問直して見ようかとまで思う事なども有るけれど、まさかそれも出来ないから、果てはそれとは無しにその素性を聞いて見よう。

 素性が分かれば、自ずと何も彼も合点が行くだろうと思案し、四方八方(よもやま)の話に事寄せ、今日又少しと云う様に、豪州に居る時の事を問うた。別に隠す様子も無く、打ち明けては話すけれど、何うも是と云う捕え所が無い。多くその身を恥て居るのは、生計向(くらしむ)きが貧しくて。父が不義理な借金をしたり、人の物を借り倒したり、或いは又詐欺に斉(ひと)しい事をしたり、などした事柄である様だ。

 是だけでは何だか腑に落ちない気がするので、或いは丈夫に聞かせる方が好いだろうと思い、
 「槙子さん、貴女はこの様な身の上の事を、丈夫へは話しましたか。」
 槙子は異様に熱心に、
 「ハイ是非お話し申して置き度いと思いますけれど、丈夫さんが毎(いつ)も聞くに及ばないと云って、推し止めておしまいに成されますので。」

 母御「イヤそれは丈夫の気質です。人を信ずる時は、少しでも疑う様な素振りを示すのさえ嫌うのです。けれど、こう深く信ぜられる丈に、猶更(なおさら)貴女から話さなければ成らないでしょう。折が有ったら改まって、何うか私の身の上を、聞いて下さいと云うのが好いでしょう。」
 槙子は少し考えて、
 「ハイそう致しましょう。」
と受け合った。

 母御がこれ程までに云うのも、一つは一緒に居るに従い、益々槙子の善良な気質が分かり、此の上も無い、好い嫁を得る事になったと喜ぶが為である。此の様な良い嫁だから、婚礼の後に及び、少しも夫婦の間に思い違いなどの無い様に、今から何事をも明るくして置き度いとの、実は親切である。

 そうしてこのような話の後で、
 「貴女は此の国から出て、豪州へ行ったとのお話ですが、誰れか此の国に知った人は有りませんか。」
 槙子の知った人ならば、槙子をも知って居るので、その人から一応聞いて見たいとの念が、此の問の裏には潜んで居るらしい。槙子はそうまでは思わないが、兎に角悲しい問題であるのだから悄然として、

 「ハイ竹子と云う伯母さんが有って、可愛がって呉れた事は薄々、イヤその伯母さんの顔までも覚えては居ますけれど、その外は少しも知れません。」
 母御「ハテな竹子、貴女の姓は春山と云いましたねえ。春山竹子とでも云うのかしら。」

 考えたけれど、此の名だけでは、何事も分かる筈も無い。槙子もそれと見て取ったか、
 「私しは、多分可也な身分の家だろうと思いますけれど、分からない事を幾等思ったとて、無益ですから、自分の元の家柄は、無い者だと断念めて居るのです。」

 云う言葉が如何にも悲しそうである。真実その通りなら、悲しむのも無理は無いと母御は察した。真実だろうか、将(は)た真実で無く、無い家柄を有る様に思わせる為だろうか、その邊までは今は分からない。



次(本篇)三十一

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