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hitonotuma36

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)三十六 「新聞紙の記事」

 此の後にも槙子は決して自分の名を、手紙その他の書面に署名しなかった。署名しなければ成らない場合には、唯「Mの一事だけを記した。何の意だろうと丈夫は多少怪しみもしたけれど、総て女には、男の理解出来ない様な、妙な癖が有る者だと聞いて居るから、是も癖の一つだろうと思ってしまった。

 それはさて置き、蜜月(ハネムーン)の旅から帰って間も無くの事で有った。丈夫は一年に一度の総決算の為め、伴野荘へ行く事に成った。総決算とは、伴野荘を古い負債の為に、人手に渡して有るのだから、昨年中に幾等の収入が有って、幾等利子へ入れ、幾等元金へ繰り込んだと云う事を、今住んで居る債主と共に決算するのだ。

 全体云えば、去年の暮に為すべきで有ったけれど、婚礼が迫って居た為め、蜜月(ハネムーン)の後までと云う事に、延ばして置いたのだ。
 未だ夫婦と云っても、所謂(いわ)ゆる「婚礼当座」の事で、片時も離れるのも辛く思う際だから、槙子も丈夫に附いて行った。

 この様な用事に、妻など連れて行くのは幾分か邪魔では有るけれど、丈夫は昔から我が家代々の住んだ荘園が、如何に立派で、その領地が如何に広いかと云う事を、見せ度くも有る。それで決算旁(方々)連れて行ったのだ。

 何しろ「伴野荘」と名所案内にも書き加えられる程の立派な所だから、立派な事は勿論である。丈夫は馬車がその境界線に進み入ると同時に、様々の感じが胸に湧いた。若しも此の荘園が、今もまだ我が物で有って、此の通りに新婦を連れ、蜜月(ハネムーン)から直ぐに此処へ帰って来る事が出来たなら、何れ程か楽しかろう。

 領地の住民は悉(ことごと)く家に国旗を立て、境界のはづれまで歓迎のの為に出るだろう。寺院なども祝賀の為に、特に鐘を鳴らし、領地一般が、大祭日の様な様子を呈するだろうなど、此の様に思って見ると、今の只二人で供さえも連れずに、ここへ来たのが悄悲(うらがな)しくも有る。

 しかも来たその用向きはと云えば、父の代から返えす事が出来ないでいる、借金の計算の為で、成るべくは人にも見られない様、忍びやかにしたい程である。まだしも母と二人で絶望しつつも、更に貧と闘って、此の荘園を受け戻そうとして居た頃が恋しい程だ。

 丈夫よりも槙子の方は、一層此の荘園の立派さに驚いた。驚くに付けては、之を失った丈夫の残念さも察せられる。何うか我が夫婦の一代に、之を債主から受け戻す事にしたいとの念をも起こしたけれど、実際受け戻すと云う事は殆ど見込みが無い。

 やがて丈夫が債主と総決算をした結果も、どちらかと云えば、絶望の方に向いて居る。昨年は田畑総体が不作で有った為めに、少し山林の方に利益が有ったばかりで、やっと利子を払うには足りたが、その中から母御へ仕送りをしたので、その利子さえ、皆は払わず、多少今年度へ持ち越したので、元金は少しも軽くならないとの事である。

 此の決算に二日掛った。三日めに、ここを立去るに当たり、槙子は幾度も馬車の中から振り返り、山林の富や牧場の豊かな様子を見ては、丈夫に向かい、
 「貴方と阿母(おっか)さんとの御無念が察せられます。此の様な立派な荘園が有りながら、ここにお住居なさる事が出来ずに。」
と悔やんだ。丈夫は笑いに紛らせて、

 「ナニその代わりに、此の様な宝を得たから何も悔やむ事は無い。」
と云って槙子の頬に指を当てた。
 槙子「アレ冗談では有りません。是からは交際も何もせずに、出来る丈け節約して、何うか貴方と私しとの一生に、ここを受け出す事にしましょう。」

 仲々倹約ぐらいの事で、生涯掛ったとて、受け出す事の出来る譯は無い。
 けれど丈夫は喜んだ。
 「和女(そなた)がその心掛けで居て呉れれば、私は此の荘園を受け戻したよりも満足だ。」
と答えた。

 真に気の合った夫婦なら、貧乏すればする丈、益々親密に成って来る。生計向きの不如意の為にイガミ合うのは、決して末頼もしい夫婦では無い。是よりロンドンに帰って後、真に槙子は此の言葉の通り倹約を始めた。時々丈夫が、こうまで節約してはなど、心配そうな言葉を吐くと、自分から気を引き立てて、丈夫を励ます程で有った。

 尤も丈夫の身分が何しろ男爵で有って、そうして昔から人に敬やまわれる家柄であるのだから、社交界から随分沢山案内は受ける。中には断わり切れないのも有って、夫婦で之に応ずる事も有る。それが為に、知り人なども次第に増え、家の費用も段々に嵩(かさ)みはするが、槙子の奮発は仲々弛まない。

 費用が嵩む丈、倹約の手を緊(しめ)る。丈夫は却って心配になり、
 「その様に心配しては病気になる。」
と云い聞かせた事も度々であったが、何時の間にか、その言葉が不幸にも真事(まこと)と為り相な時が来た。

 今まで何の様な辛い事にも気の挫けた事の無い槙子が、自然自然に陰気と為った。何時見ても笑顔で居たのに殆ど笑顔は、見る事も出来ない様に、暇さえ有れば何事をか考え込むのは、気疲れと云う者だろうか。それとも外に又、取り分けて気に掛かる様な事でも出来たのだろうか。

 丈夫は心配の余り、時々問い試みたけれど、満足な答えを得ない。
 「何も気に掛かる様な事柄は有りません。」
と答えるのみだけれど、此の答えは決して誠では無い。その誠で無い事は、或時丈夫が、不意に槙子の部屋へ入って行った時に分かった。

 槙子はテーブルに凭(もた)れて泣き沈んで居た。そうして泣き沈んだ顔の下に一枚の新聞紙が有った。確かに何か新聞紙の記事の為に泣いて居たのだ。丈夫の姿を見ると共に槙子はその新聞を畳んだ。そうして隠そうとした。けれど是だけは良くは間に合わなかった。

 丈夫はその新聞の号外を見たが、この新聞は、東洋で云えば、丁度「萬朝報(よろずちょうほう)」の様な位置を占めていて、確実無二と云われて居る「ロンドンタイムス」であった。



次(本篇)三十七

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