hitonotuma37
人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)
バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。
since 2021.4. 17
下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください
人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作 黒岩涙香 訳
(本篇)三十七 「希望広告」
「何を新聞など見て泣いて居る。」
と丈夫は問うた。
「ナニそうでは有りませんよ。」
と槙子は紛らせてしまった。
念の為に丈夫は、その新聞を取って雑報蘭を読んで見たけれど、別に槙子を泣かせる様な記事は無い。又考えて見るに、槙子が悲しそうに打ち鬱(ふさ)ぐのは、今始まった事でも無いから、成るほど今日の新聞の為めに泣いたのでは無いのかも知れないと、こう思ってしまった。そうして出来るだけ槙子を慰めて此の場は済んだ。
所が是から両三日を経て、丈夫は出先で二三の友人と落ち合って、此の人々から妙な話を聞いた。それは種々の雑談の末で有ったが、一人が不意に、
「先頃から春山夫人竹子の方が捜して居る姪は、何所に居るのだろう。」
と云い出した。
何の事だか丈夫には更に分からない言葉だけれど、春山夫人と云い、竹子と云うのは、確かに聞き覚えの有る姓名だから、丈夫は
「それは何の事です。」
と聞き返した。友人は怪しむ様に、
「貴方は未だ、此頃到る所で噂に為って居る此の事件を知りませんか。ロンドンタイムスの希望広告蘭を御覧なさい。」
と云われた。ロンドンタイムスの一語も異様に丈夫の心を動かした。
「アノ新聞の希望広告蘭に」
と再び問う声に応じ、又一人は、
「先月三度出て、今月も、もう三度出たが、何でもその姪が現れて来る迄、毎月三度づつ掲げる事に頼んで有ると見える。何しろ夫から大資産を残されて、それが為に、紳士社会の引張凧に成った春山未亡人ですもの。此の方が自分の姪の行方を捜すと云えば、何の利害関係も無い他人でも、冷淡に見て居る事は出来ません。」
と云った。
その尾に従(つい)て又一人は、
「アノ様な金満夫人が、相続人無しに死ぬかと、誰も怪しんで居たのですが、希望広告で捜されて居るその姪が、現われさえすれば、必ず相続人と成るのでしょう。所がその姪は、タイムス新聞などを見ずに、何所か豪州(オーストラリア)邊で貧しい生涯を送るかも知れません。」
豪州と云う声も又異様に丈夫の胸に響いた。
話は是だけで終わったが、丈夫は此の日一日の事務が済むや否や、直ぐに自分の属して居る倶楽部へ行き、その読書室へ入って、新聞係に先月からの「ロンドンタイムス」の綴じたのを出させた。そうして一々希望広告蘭を検(あらた)めたが、大した面倒も無しに捜し当てた。その広告の文を見ると、実に驚かずには居られない。
その標題は、
「二人の姪春山嬢よ」
と少し大きな活字で置き。そうして、
「今から十六年前、父春山桂造に連れられて、豪州へ渡った槙子、松子の両人よ、又は両人の中の一人よ、此の広告を見次第に、下記の伯母まで手紙を送れ。伯母より必ず喜ばしい便りを聞くだろう。
デポンジャーにて 春山竹子
と有る。
丈夫は唯だ一息に読んでしまったが、暫(しば)し新聞を見詰めたまま、身動きもしない。実に驚きの為、金縛りにせられた様になったのだ。此の広告に在る槙子、松子の中の一人が、我が妻槙子で無くて誰であるか。槙子の姓の春山と云う事も、前から分かって居る。姉妹二人、父に連れられて十数年前に豪州へ行った事も分かって居る。
そうして槙子自身が、竹子と云う伯母の有った事を、覚えて居ると云ったのも事実である。素性を、素性をと、婚礼前に疑ったその素性が、此の様な素性で有ったとは、実に思いも寄らなかった。
尤も槙子の口から母に向かって、良い家の娘である様に感ずる旨を告げたとは云うけれど、母も自分もその言葉に少しも重きを置いて居なかった。そうして今は大方忘れ掛けて居た。
こうしては居られないとの念が、心の底に動くと共に、丈夫は立ち上がり、馬車を雇って急がせ宿へ帰った。帰って入口で馬車を下りると、丁度内から出て来た一婦人が有る。丈夫はその誰であるかを見もせずに、内へ入ろうとずると、その夫人は、
「オオ伴野男爵」
と懐かしそうに声を掛けた。
見ると風間夫人である。今まで男爵などと、敬称を加えた事が無いのに、何故だか殆ど打って替わって居る。そうして丈夫が顔を顰(しか)めるのも無視して、
「申し譯ないご無沙汰を致しまして、イイエ今日は故々(わざわざ)槙子を、イヤ令夫人をお尋ね申したのです。ご存知の通り大津家に居る頃は、自分の娘よりも可愛い程に思って居ましたから、何だか懐かしくて、逢わずに居られませんので、イイエ大津博士も常にそう云って居ましたよ。
頼り少ない槙子を、我が子の様に可愛がって呉れるのは、風間夫人貴方ばかりですと。ハイきっと槙子も心強く思うので、貴方の恩を後々まで有難く思うだろうと。ナニ貴方、槙子さんの様な可愛い方を、可愛がるのが何で恩などに成りますものか。ネエ男爵、オホホホホ」
可笑しくも無いのに笑みまで加えて、独りで問答する様に述べ立てるのは、是も確かに希望広告を見た人である。
a:129 t:1 y:0