巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四 「何か際立った仔細が」

 船の中で雑踏の際に見たのとは違い、こうして一室で差し向かいに成って見ると、又一層美しい所が有って、それに年などは何うしても二十歳と迄は見えない。精々十九にも成ろうか。まだ全(まる)で少女である。それなのに此の様な艱難辛苦の境遇に立って居るかと思うと、真に痛々しい気がする。

 丈夫は益々同情を深くした。その上に総体、身に備わって居る品格が又一層高く見える。何うしても賤しい人の児では無い。少なくとも自分と同格以上の身分であると丈夫は独りて思い詰めた。そもそも何者の児で有ろう。

 全体豪州と云う所は、英国に居て何か面白く無い事情の有る人が皆行く所だから、貴族の種も有れば、王侯の血筋も有る。槙子は必ずその様な血を享(う)けて居るのだろう。或いは此の国で生まれて幼い頃に彼国へ連れて行かれた者か、それとも彼国で生まれた者か、どちらにしても立派な貴婦人としても好い。好いに就けては波太郎の未亡人で有る事が益々恨みだ。

 誰れの児、何の様な素性と、丈夫は聞いて見たくて成らない。けれどそう不躾(ぶしつ)けに聞く譯にも行かない。その中には追々分かる時も来るだろうと、ヤツとの想いで我慢して、それとは無しに万事に気を附けて見たが、幾等品格は備わって居ても、未だ交際には少しも慣れない者と見え、テーブルの上の作法などにも少しづつ落ち度が有り、中には何うして好いか分からない所も有るらしい。

 此の邊の様から察して、身分は良くとも生計(くらし)向きは貧しかった事が分かる。若し此のままで大津家へ行ったならば、女ばかり多い間だから、詰まらぬ事を笑われたりして、赤面しなければ成らない所も有るだろうと、丈夫は親身の様な親切を以て、それとは無しに教えもし、指図もした。

 是等の親切は深く槙子の身に浸みた様であるが、その親切の浸みるに従い槙子は益々悲しげに見えて来る。やがて食事は終わったけれど、少し槙子の気が引き立つまで居て遣り度いと思い、

 丈夫「貴女が若しお疲れの為にお寝(やす)み成され度いならば、是で私はお暇に致しますが、それとも一人でお寂しいならもう少しここに居て色々お話を致しましょう。」
 槙子「イイエ、私にはお構い無く。何方でも貴方の気の向いた様に成さって戴きましょう。」

 極めて通例の言葉では有るけれど、その言い方が甚(ひど)く悲しげに聞こえる。
 丈夫「私の気に向かった方ならば、それではもう少しここに居ましょう。初めて他国へ着いた晩に、話相手さい無くては、男子でさえ心細くなりますもの。」
と云い、二言、三言話し始めると、槙子は、耐(こら)えて居た悲しさが、最早や耐(こら)え切れない程になったか、忽ち顔に両手を当て、涙を呑み込む様な咽(むせ)びの声を発した。爾して果ては彌々(よよ)と許りに泣き出した。

 その身の境遇を察して見れば、実に泣かずには居られないだろう。けれど丈夫はこの様な場合に、世間の或る男子の様に、得たりと手を出して背なを撫でて遣る様な事はしない。唯だ柔らかな言葉で、
 「お泣きなさるな。如何にも悲しい事ばかりでは有りましょうが、その中には幸福な月日も来ます。それに貴女の是から行く大津家は親切な人ばかりですから。」

 槙子は漸くに顔を上げ、異様に身を恥じる様な殆ど面目無く思う様な言葉附きで、
 「貴方の様に親切でしょうか。」
 丈夫「イヤ私よりモッと親切です。少しも御心配に及びませんよ。」
 槙子「私はその親切にして下さるが何よりも辛いのです。イイエ、私は今まで親切と云う事は少しも無い土地に居て、人は誰でも不親切なのが当たり前と、此の様に思って育ちましたから、人へも不信切な事ばかりして、ハイ悪事ばかり考えて、本当に私は悪人ですよ。今夜彼方に親切にして戴いて、初めて目の覚めた様に思い、自分の悪事が浸々(しみじ)みと分かりました。アア私は汚らわしい女です。人様の親切を受けては罰(ばち)が当たります。」
と空恐ろしく思う様子である。

 果たして何の意味だろう。悪事だとか、汚らわしとか、只管(ひたす)らその身を責める様に聞こえるのは、或いは夫波太郎に不親切を以て応じたのだろうか。或いは輪子の推量した通り、正式の婚礼もせず、野合の果てに子まで出来、波太郎の妻と名乗りはしても、その実妻と云う事の出来ない身なんだろうか。是ほど迄に云うからには、何か際立った仔細が有るに違い。

 けれど丈夫は此の女に、真実悪事と云う様な事柄が有ろうとは思う事が出来ない。悪事だの汚れだのと云う事が有り得る顔とは顔が違う。彼は又傷(いた)わって、
 「その様に心細い事を云う者では有りません。」
 槙子「イイエ、誰でも私の悪人と云う事を詳しく聞いたら、親切にはして呉れません。ハイ、聞けば貴方でも決してこう親切にして下されません。」

 丈夫「では何時までも聞かずに居ましょう。」
と笑(冗)談の様に言い紛らせた。けれどここに至っては、心の中に少し驚きも怪しみもしないでは無かった。
 ハテな、真に此の女の身の上の分かる時には、そうさ何の様に分かって来るだろう。如何に炯眼(けいがん)《物事の本質を見抜く鋭い眼力》の読者でも是丈は予想する事が出来ない。



次(本篇)五

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