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hitonotuma41

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.4. 21


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十一 「オヤ、違う」

 又読み続けた竹子夫人の手紙の下文は下の通りである。
 「私は良く二人の顔を覚えて居る。尤も幼顔の事ゆえに、今は見違える程であろうが、孰(いず)れにしても懐かしい。私しの最愛であった松子の方が亡くなった事は、返す返すも残念であるけれど、仕方が無いとして、私は何の証拠も見ずに和女(そなた)を信ずる。

 イヤ実は証拠を見届けたのだ。此の手紙の中に、何よりも確かな証拠が有った。和女(そなた)等姉妹は互いに、「まっちんや」と呼び合って居た。姉も妹の事を「まっちゃん」と云い、妹も姉を「まっちゃん」と云ったのであった。その幼い呼び癖が手紙の中にまで残って居る。何うして疑う事が出来ようぞ。

 最早やこう分かった上は、一刻も早く和女(そなた)を見たい。何うぞ和女の夫男爵にも此の手紙を示し、同道して来てお呉れ。実は私の方からも行き度い程に思うけれど、数年前から私は中風となって、歩む事が思う様に出来ない。唯だ和女等の来て呉れるのを待つ一方である。

 勿論此の様な中風病者の相手だから、来たとても面白い事は無い。真に退屈はするだろうが、何うか二週間以上逗留の積りで宜(よろ)しいかえ、念を押すよ。二週間以上だよ。和女(そなた)と私との間には、二週間位で話の種は尽きないけれど、男爵には取り分けて迷惑だろう。そうでは有るだろうが、和女(そなた)の伯父さんも時々見えるから、男同士でと云って、共に釣りや猟に行くなどは出来るだろう。

 私は病気になって淋しくて成らない。淋しいに附けては、益々和女等の事を思い出し、若しやこうもしたなら、何とか便りも有るだろうからと、新聞に公告した。実は向こう何カ年でも、何とか便りが聞こえるまで、毎月三度づつ出させて置く筈で有ったが、二ケ月目に早や和女(そなた)の便りを得たのは不思議な程に思われる。

 もう是で広告にも及ばない。お出でよ。是非お出でよ。私の都合は何時でも好い。早いだけ嬉しいのだから、別に日は指定しない。夫男爵と相談して成るだけ逗留の長い様に。私は毎日待って居るよ。」
と是だけである。

 そうして、
 「和女(そなた)の伯母に違いない竹子より」
と署名してある。
 此の手紙に二人は非常に喜んだ。尤も槙子の方は、何だか多少の心配も有る様に、喜びの中に懸念の様子が無いでは無い。けれど丈夫の目には分からない。

 丈夫に至っては唯だ喜びの一方である。勿論そうで無くては成らない。素性も血統も良くは分からず、唯だ愛と云う一念の為に娶った妻が、今まで母からも誰からも、多少危ぶまれて居たのに引き替え、忽(たちま)ち英国の貴族中でも、最も名誉の高い家柄から出て居ると分かったのだもの。世に是ほどの歓びが又有ろうとは思われない。

 是れで見ると槙子は、今の春山家の当主である、伯爵の父が、即ち槙子の父の父なので、伯爵と伯父、姪に当り、竹子の方とは伯母、姪に当たるのだ。竹子の方は当主伯爵の姉さんだから。

 竹子夫人が書面を急ぐと同じく、丈夫も大いに急ぐのだ。数日の中に政府から暇を貰い。多少の用意をも調えて、夫婦デポンシャーへ向けて立った。やがて到着して見ると、停車場には迎えの馬車が待って居る。それに乗って、竹子夫人の屋敷へ向け進んだが、近づくに従って槙子は此の邊の様子を、夢の様に想起した。

 丈夫に向かって、
 「アア私は丁度此の様に青々と樹の生えた所を、何所でか見た様に思い、夢だったか本当だったか、考えても分かりませんでしたが、時々心に浮かび出る様に思ったのです。是から行くと、大きな槐樹(えんじゅ)が茂って居て、その陰に奥ゆかしい門が有る様に思います。」
と云った。

 果たしてその通りである。道が曲がって間も無くその樹が有って、その門がある。幼き時に心へ浸みこんだ景状は、忘れた様でも何所かに痕(あと)を留めて居ると見える。門を入って、中の幽遠な光景は一々記すにも及ばない。如何にも金満夫人の住んで居さそうな所である。

 やがて玄関から、取次に案内せられて奥に入った。竹子夫人の部屋に通った。夫人は成るほど中風の為め、立ち居が自由にならないと見え、車の付いた寝台の様な椅子に、身を斜めにして、暖炉の前の邊に温(ぬく)もって居る。取次が、
 「伴野男爵、及び令夫人」
と云うが否や、

 「オオ槙子か。良く来て呉れて。サア此方へ廻ってお呉れ。」
と云い手を差し延べた。槙子はその言葉に従って、竹子夫人の顔をじっと見たが、
 「オヤ、違う。」
と合点の行かない語を洩らしたけれど、まだ手は握ったままである。槙子は最も美しい笑みを浮かべて、
 「伯母さん、何が違います。」

 自然の声では有るけれど、自然の中に少し自然でない所が有る。



次(本篇)四十二

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