巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma42

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十二 「違った仔細」

 「オヤ、違った」
とは、何事が違ったのだろう。
しかし、槙子の方では何の違いをも、認めない様である。全く懐かしい竹子伯母さんを覚えて居て、今も猶お多くは変わらないその顔に対し、積り積もれる恋しさが、徐々に腹の底から込上げて来る様である。

 伯母御は叫んだ。
 「違ったけれど、違った方が結局私には喜ばしい。和女(そなた)は槙子では無い。槙子では無い。槙子よりも私の愛した松子の方である。オオ松子、松子、和女(そなた)が生きて居て呉れたとは、先ア何たる仕合わせだろう。」
と云い、良くは利かない手に槙子を引き寄せ、
 「オオもっと良く傍へお寄り。昔の様に私の頬へその頬を当ててお呉れ。イイエ、和女(そなた)の名が、槙子と違って居る仔細も、大抵私には分かって居るから。」
と云い、殆ど何とも云わさずに抱きすくめる様にした。

 何だか合点の行かない事の様に、丈夫の目には見えるけれど、
 「その仔細が分かって居る。」
と伯母御が云う上は、何も傍から怪しむにも及ばない譯だ。槙子の方は合点が行ったか、合点が行かないが、是れを不思議がってなど居る暇は無い。

 「竹子伯母さん。竹子伯母さん。お懐かしう御座いました。」
と云い、縋(すが)りつくと共に、深い深い涙が、腹の底から込上げて、暫(しば)しは唯だ咽(むせ)び泣くのみであった。

 やがて竹子夫人は、
 「イヤ、二人が唯だうれしさに夢中となり、男爵の事を忘れて居ては済まない。」
と云い、漸く丈夫の来て居る事に気が付いた様に、槙子を推し退けて丈夫に向かった。そうして滞り無く初対面の挨拶を済ませたけれど、猶ほ一応は今「オヤ違った」と云った事の仔細を、言い開いて置かなければ成らないと思ったか、

 「私は此の様な嬉しい事は有りません。槙子も松子も同じ私の姪ですから、遠い近いの区別とては有りませんけれど、此れの父がまだ此の国に居た時に、私は松子の方を是非とも自分の娘分にしたいと云い、略(ほ)ぼ相談も出来て居ました。

 イイエ、松子は真に愛らしい少女でした。それで私は自分の子も同然と思い、成る丈自分の手許へ呼び、手の中の珠の様に、寵(いつく)しんで居ましたが、その後此れが、父に連れられて豪州(オーストラリア)へ去って後も、絶えず私の気に掛かるのは槙子よりも、此の松子でした。

 先日此の子から手紙を得た時、真に嬉しくは思いましたけれど、肝腎の松子が死んだと聞き、又非常に落胆して一時は涙に暮れました。けれど又思い直せば、二人とも同じ姪で、槙子の方が生きて居れば、それを松子と同じ様に思い、自分の愛をその一人に固めれば好いのだと、ハイ此の様に考えを替えましたが、今見れば、槙子と思ったのが実は私の松子です。」
と説き来る語は、まだ終わらないのに、槙子は傍らから、

 「イイエ伯母さん、私の方が槙子ですよ。」
 伯母御「和女(そなた)はそうも思って居るだろうが、私の目には間違いが無い。綺倆から何から何まで、和女の方が優れて居た。髪の色も目の色も、それから総体の容貌も、槙子とは余ほどの違いで、幾等その頃の幼い顔と今の顔と、違って居るにしても、見違えられない所が有ります。」
と、少しの疑いをも、容れる余地の無い様に云うのは、充分確信しての事に違い無い。

 丈夫は何とも一言を挿しはさむ事も出来ない。唯だ呆(あっ)けに取られた様である。伯母御は更に語り続けて、
 「けれど私には、何故に間違ったかと云うその譯が大抵は分かって居ます。きっと貴方もお怪しみでしょうから、言い難い事まで申して置きますが、是れの父は一族中の変わり者でした。

 今の春山家の当主である実の兄と、しばしば争うのは勿論の事、私とも絶えず喧嘩を致しまして、挙句の果てに此の国を去る様に成りました。それまでの身持ちが、それはそれは放蕩で、お話にも成りませず、親族一同へ何れほど迷惑を掛けたかも知れません。

 既に此れの母なども、苦労と悲しみとの中に世を去りました。そうして放蕩のトドの詰まりが、私と兄とへ、二人の娘を質に置くから、金を貸せとの無心です。それまでの事情の為に、最早や何うしてもその無心に応じられない様に成って居て、その上に娘を質に置くなどとは余りな事で、返事も出来ない程ですから、その兄も私も手厳しく断わりました。

 是に立腹して彼れは他日必ず復讐するからと云って、此の国を立去りました。その時に私し共へ云ったには、今立ち去れば決して再び、自分の便りが此の国へは聞こえない様にするから、後で何れほど悔やんでも、取り返しが附きませんぞと云い、更に二人の娘にしても、何れほど此の国で気を揉んでも、尋ね様の無い様にして置くと云いました。

 けれど此の様な事を云って、私共を威す事は幾度と数も知れない程であるから、取り分け私が深く松子を愛する事は、彼れは充分に見抜いて居ましたから、こうすれば必ず驚いて、何の様な無心にも応じるだろうと見込んでの事に違い無いと、私し共は是ほどにしか思いませんでしたが、意外にも今度はその威しを実行して、二人の娘を連れたまま、姿を隠してしまいました。

 尤も多勢の債主に取り囲まれ、姿を隠すより外は無い様に成って居た事ですから、云わば夜逃げも同様に去ったのです。私共は驚いて様々に捜しましたが、漸(ようや)く汽船会社の人から、確かに豪州(オーストラリア)へ渡ったとの事を聞き、更に良く調べた結果、全くそれに相違無いと定まりました。

 その後で負債の事などは、私の兄、今の春山家の当主が、それぞれそ処分致しましたが、多分、半年か一年の後には、何とか豪州(オーストラリア)から便りが有ろうと、此の様に思いますうち、終に便りも無く、今まで更に行方分からずに終わったのです。

 此の様な譯、此の様な人ですから、たとえ何の様に私が松子を捜して、多年の後に捜し当たっても、充分な目的は達する事が出来ない様に、二人の娘の名前を取り替えたに相違有りません。何でも人に迷惑を掛け、余計な手数を掛けるのを喜ぶ気質が有りました。幾等此の国で気を揉んでも、二人の娘は尋ね様の無い様にして置くと云ったのを、思い合わせると明白に分かります。

 此の子へ槙子の名を取らせて、槙子へ松子と云う名を附けたのです。幾等その様な事をしたって、当人達の容貌に争われない所が有るから、仕様が無いでは有りませんか。」
と落ち無く述べ終わった。



次(本篇)四十三

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