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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma48

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)四十八 「人の居ぬ所へ」

 真に伴野丈夫の顔には、殺気を帯びて居ると云っても好い。平生の面持ちとは全く変わって居るのだ。之が若し殺気で無ければ、必ず発狂と云う者だ。日頃厳重な中に、柔和な所の見えて居る顔だけれど、今はその柔和な所が少しも無く、唯だ悔しさに固まった一塊物の様に見えて居る。

 確かに之が殺気と云う者だろう。けれど実は殺気の立つのも無理は無い。全く波太郎を殺してしまうより外に、逃れる道が無いのだもの。アア今までは、波太郎が死んだ者と為って居た為め、何事も太平無事に治まって居た。それが波太郎の生きて帰って来た為に、此の様な大変な次第には立
ち到った。

 本当に波太郎が死んでしまえば、今まで通り太平無事に返るのだ。死なないならば、殺してしまえば好い。死んだにせよ、殺されたにせよ、波太郎と云う者が此の世に亡くなりさえすれば、何事も無いのだ。そうだ。そうだと、此の様な妄念が、丈夫の心へ出つ入りつ現われて来る。

 丈夫は自分でその心を揉み消そうともしない。その心を悪いとも思わない。恐ろしいとは尚更思わない。却(かえ)って一種の笑みをさえ浮かべて来た。けれどその笑みが、普段の笑みと違って居る事は勿論である。物凄いと云うしか言いようが無い。

 流石の波太郎も、何と言葉を発して好いやら、殆ど決し兼ねて居る。けれど何しろ意外な事柄だから、彼れは暫(しばら)くして再び繰り返した。
 「私の妻の槙子が、そうですか。今は貴方の妻に。イヤ私と云う者が、此の通り生きて居ては、貴方の妻と云う譯にも行かないのですね。実に面白い事柄が有った者ですねえ。宛(あたか)もで小説の様に。」

 非常に重大な事柄をも、冗談の様に見做(みな)してしまう波太郎の前からの癖は、此の様な時にも時々現われる。丈夫は此の言葉を聞いて、急に劇(はげ)しく身を震わせた。けれど直ぐに自分で制してしまった。

 之れは全く波太郎の喉元(のどもと)を目掛けて噛み掛かろうとしたのだ。その心と共に運動神経が強く痙攣を起こしたのだ。若しも此の時自分で自分を制する事が出来なかったならば、真成に波太郎を絞め殺したに違い無い。

 彼は身震いを制すると共に、少し声をも落ち着けて、
 「何しろ非常に間違った事柄ですから、此の儘には捨てて置けません。貴方と私との間で何とか処分をしてしまわなければ。」
と云った。

 波太郎は未だ少し、丈夫の様子に合点の行かない所は有るけれど、波太郎に似つかわしい思案を以て、
 「成程そうです。こうなれば貴方が幾等かの賄賂を以て、私を買収する一方でしょう。貴方はまだ婚礼してから間も無いでしょう。

 余り月日が経てば、夫婦仲が次第に冷淡になり、ナニ此の様な女房なら、何の様な目に合わせても構わないと云う気になりますから、高い賄賂まで払って、処分するのは馬鹿馬鹿しいと。イヤ誰でも其の様な気になりますよ。貴方と云えども、その数には漏れません。

 だから今ここで賄賂の競り市を始めようでは有りませんか。サア最初の附け値は幾等です。貴方から切り出して下さい。私の方で段々と競り上げますから。イイエ私も今ここで、幾等かの金を頂き、槙子を彼方に売り渡した方が余ほど幸いですから。」

 若しも金子で買い取る事の出来る者なら、縦(たと)え百万圓でも惜しくは無い。今槙子の身は、その持って居る財産のみで積もっても、百万圓ぐらいで傷が附く額(たか)では無いのだ。よしや傷が附いても、財産の傷は少しも厭(いと)わない。けれど金や刀で済む様な、その様な軽々しい問題では無い。

 今若し波太郎の生きて居る事が、而も此の通り此の国へ帰って来た事が、自分より他の人へ分かったなら何うだらう。自分は天にも地にも身の置き所が無い様な場合と為る。それよりも更に恐ろしいのは、槙子の耳にへ此の事が入ったなら、何うであろう。槙子は決して此の世の人では無い。

 之を思うと、自分が今ここで波太郎に逢ったのは、そうサ、彼が帰国して未だ何人にも知られる前に、偶然自分に逢ったのは、まだしもの幸いである。天が引き合わせて呉れたのでは無いだろうか。

 誰も知らない間に、波太郎を殺してしまえと、天から自分へ謎を掛けて居るのでは無いだろうか。何うもそうらしく思われる。そうだ。そうだ。何としても波太郎を殺す外に道は無い。此の様な悪人、此の様な邪魔者を殺すのは、第一槙子の様な善人に対する務めである。

 悪を殺して善を助けると云う者である。誰に気兼ねをする所も無いと、丈夫の心中の殺気は、唯だ気焔(きえん)を増すばかりである。
 実に丈夫の様な、至善至良の人が、此の様な殺気を起こすのは、実に不思議である。けれど善人なればこそ、此の様な場合に此の様な気が発するのだ。

 彼の心には最早や、恐れも躊躇(ちゅうちょ)も何も無い。殆ど国家の為に、大いなる手柄をでも現す事柄でも有るかの様に感じて居るらしい。之を有のままに云えば、一種の発狂である。善人的な発狂とでも称すべき者なの
だろう。

 彼が相変わらず恐ろしい顔で、
 「波太郎さん、人の居ない所へ行きましょう。」
と云った。波太郎はまさか自分が殺されるとも思わない。思わない筈さ、丈夫の声が、今は極めて落ち着いて居て、人を花見にでも誘う時の声と、大して変わらない程だもの。

 波太郎「そうですね、まさか人込みで賄賂の競り市も出来ません。何所か静かな所へ行って相談しましょう。」
 丈夫「此の後に在る森の中まで行きましょう。彼所(あそこ)へ行けば、直ぐ決まってしまいます。」

 波太郎の手を引かない許りにして、停車場の背後にある森を指して、丈夫は去った。



次(本篇)四十九

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