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hitonotuma52

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)五十二 「生涯の手切れ」

 「貴方の静かには懲々(こりごり)です。」
と言って波太郎が、再び静かな所へ行くのを予防するのは無理も無い。しかし丈夫の方も今は自分の暴行に懲りて居るのだから、どうしても静かな所へ行こうとは云わない。何でもここで早く相談を決めてしまい度い。兎にも角にも波太郎との相談を先ず決めて、その外の事はその後で思案するのだ。

 「金は幾等でも、ハイ貴方の望む丈け上げますが、貴方は先刻云ふた通り、直ぐに此の国を立去って、姓名も変わってしまい、自分が此の世に生きて居る事を、誰にも知らさない様にしますか。」
と、丈夫の言葉は極めて露骨で有る。飾りも無く愛想も無い。

 波太郎「それはもう相談が決まって居ます。私の方から言い出した事ですもの。金さえ下されば、何の様な事でも仕ますとも。」
と却(かえ)って嬉し相に云い、やがて気が附いた様に、
 「ですが貴方はその様な金持ちに成りましたか。誰かの遺産を相続でもしたのですか。」

 全く相続したのである。自分が相続はしないけれど、波太郎の妻槙子が相続したのである。その槙子が自分の妻と為って居る為め、イヤ波太郎が此の様に生きて居る上は、自分の妻と云う事は出来ないにしても、兎も角その槙子の財産が自分の自由と為って居る為め、金で済む事なら何の様にも応じられるのだ。

 けれど良く考えて見ると、丈夫も酷(ひど)い。波太郎が生きて見れば、槙子は無論波太郎の妻で、其の財産は波太郎の物である。それを自分の物の様に云い、波太郎の姓名から命までも買い取る様な相談をして居るのだ。もし此の事情を波太郎が知ったなら、何うだろう。自分の妻がその実、英国屈指の金満家と為って、今自分が買収されようとする、その金が実は自分の妻の金だと。イヤ未だ分からないのが丈夫の幸いである。

 しかし丈夫は、実際その様な事に気が附いて居ない。自分が波太郎を買収する金が、自分の金か、寧(むし)ろ波太郎に属すべき金か。その様な疑問は心に浮かばない。今は浮かぶ余地も無いのだ。唯だ何か無しに槙子を助けたい。此の悪人に廻り合わさせ度く無い。一刻も早く波太郎を世界の果てへ追い遣(や)ってしまいたい。

 彼は言った。
 「ハイ、金は幾等でも有りますよ。」
波太郎は半信半疑に打ち笑って、
 「ハハハ幾等でも有るなどと安心させて置いて、又私の咽喉へ飛び附いては厭ですよ。けれど丈夫さん、私はもう無理は云いません。先刻の様に五萬の十萬のと云った所で、貴方が出す事が出来る筈も無いしさ。約束ばかりで履行が無くては詰まりませんから、大負けに負けて、ここで二千ポンドお出し成さい。

 私はそれを持って米国へ行きます。そうして後三千ポンドを今年中に米国へ送って下さい。合わせて五千ポンド、即ち先刻云った十分の一で私は此の世に無い人と為り、貴方へも誰へも、イヤ大津波太郎を知って居る人一切へ、顔も見せなければ、名も聞かせない事にします。姓名共に此の場限り取り換えて、そうですね、それでも頭字だけは残して置くのが便利かも知れませんから、大海波吉とでも致しましょう。

 大海波吉と云う宛名で、何うか送金を願います。米国へ行ってそれ丈の金を持って居れば、新たに財産を起こす事も出来、又は良家へ入り婿に成る事も出来ます。」
 
 新たに財産を起こす事は覚束ないが、良家へ入り婿になる事は或いは出来るかも知れない。随分或る場合には口先が旨くて、事に女を騙す事などは妙を得た男だから、丈夫は話の変わらない中にと思い、早やポケットの中に在る銀行の当座帳を探りながら念を推した。

 「一切で五千ポンド、それが生涯の手切れで、後々何事も云って来ず、又生きて居る事さえ人に知らせずですね。」
 実は念を推すにも及ばない。多分は暗い所ばかり有って、本名を用いる事も出来ず、大海波吉と云う名なども、今ここで初めて作ったのでは無いのだろう。

 何うせ公然と此の世に生きて居る様には、吹聴の出来ない身だから、ここで幾等でも丈夫から取れば取り徳と、それで自分から値を十分の一にも負けて、取り急ぎをするのだろう。事に由ると五千ポンドを更に十分の一に値切ったとしても、只よりは徳と思って、承知するかも知れない。けれど丈夫はそうは値切らない。何も今の身で値切る必要は無い。

 少しも話の変わらない中にと、当座帳を取り出して、二千ポンドの小切手を認めた。後金は彼の云う通り、米国へ送るのが無難だと思って居る。波太郎は喜ばしそうに此の様を見つつも、
 「けれど丈夫さん、人間も変わる者ですねえ。聖人と綽名された貴方が、人に口止め銭を払う様な悪人に成るとは、意外ですよ。でも悪人に成ったればこそ、口留銭とする丈の金も儲かったのでしょう。何でも此の世は善人より悪人の方が通り易い。

 尤も私の様に悪人の看板を掛けた悪人は、もう儲け口も有りませんが、貴方は未だ看板が汚れて居ないから、内実で悪人にさえなれば、決して不自由は無いのです。伴野荘なども、もうきっと受け戻したのでしょう。」

 丈夫は返事もせずに、二千ポンドの切手突き附け、
 「サア早く出発なさい。後の三千ポンドは今から一月の中に、米国で受け取る事にして置きます。卅日過ぎれば無効にしますから、途中でグズグズしてはいけません。」

 綿密な用意を波太郎は却って喜び、
 「船から上陸すれば直ぐに受け取れますね。有難い、有難い。丈夫さん此の大海波吉は、此の約束通りに守りますから、ご安心なさい。此の次の汽車で直ぐに港まで行き、今夜の中にも出る船が有れば、乗り込みます。僅かの猶予で後金の三千ポンドが無(ふい)になっては驚きますから。」
と自分から急ぎ立って、早や此の茶店を出たが、約束通りに次の汽車に乗って去った。

 此の様な事になると却(かえ)って悪人の方が組みし易い。



次(本篇)五十三

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