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hitonotuma61

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十一 「離婚の裁判」

 槙子の心では、自分が印度まで行って夫に謝罪(あやま)りさえすれば、それで好いと思って居た。イヤ実は夫の方から、自分に謝罪るべき程の様にも思われるのだから、それを此方(こっち)から謝罪ると云うのは、全く折れ過ぎる次第では有るけれど、妻と夫の間だから、理非曲直はさて置いて、妻の方から謝罪ろうと此の様に思ったのだ。

 是も一つは今の有様が、余(あん)まり辛いからの事である。此の様な事に成る前は、片時分かれてさい、互いに生木を割かれるほど辛く思った仲である。それが事情も分からずに、早や八か月も分かれて居るとは、人情忍び難い所で有る。

 況(ま)してやその間に子まで出来、早く此の児の顔を見せれば、何の様なお腹立ちか知れないけれど、心が解けずには居られないだろうとの思いも有る。何でも早く印度へ行き、丈夫の膝に取り縋(すが)って謝罪(あやま)り度い。家の為め、身の為め、児の為めの外に、更に夫婦の間に特別な愛し、懐かしの恋もあるのだ。

 兎にも角にも自分が印度まで行こうと云うのは、母御から褒めて呉れても好い事だろう。そうまで和女(そなた)に心配させては、済まないと云う位の挨拶は、母御の口から出相な者であると、槙子は是ほどまでに思って居たのに、母御がそれは成らないと、殆ど命令の様に制するのは、実に意外千萬である。

 これほどまで無理な仕向けを受けるかと思うと、唯情けないのみで有る。
 母御の方では槙子の此の状(さま)を見て、傷(いた)わしくは有るけれど、最早や本当の事を打ち明けて、押し留める外は無いと思った。真実と云っても波太郎の生きて居る次第では無い。丈夫の決心の誠なのだ。

 母御「私は和女(そなた)に、此の様な辛い誠を聞かせ度くは思わないけれど、聞かせなければ和女の事ゆえ、全く印度へまで行くだろうし、槙子や私の心を察してお呉れ。全くの所は、ねえ槙子、和女が印度へ行ったとしても無益です。丈夫は又と和女に顔合わさない決心で居るのだから。」

 槙子「エエ」
 母御「オオ、驚くのは尤もですけれど、もう好い加減な言葉で和女を慰めて居る場合では無い。和女が印度へ行ったとしても、丈夫は和女に面会もしないだろう。たとえ止むを得ず面会したとして、再び纏(まと)まる見込みは無く、益々す和女の身が辛い事に成る許りだから、何うかもう縁の無かった者と諦めてお呉れ。

 私しも言い難い事だけれど此の通りに云ふのだから。」
と最早や一点の疑いも、一点の調和をも、容れる余地の無い様に言い切った。
 槙子は余りの驚きに涙も出ない。声も出ない。暫(しば)し心が心の働きを停(留)めてしまった。

 けれどその顔には死の色とも云うべき凄い色が現れて居る。こくうなっては母御も辛い。何とか慰める言葉は無いだろうかと、空しく心を絞る中に、槙子は涸れた咽喉から声とは成って出ぬ様な声を出して、

 「貴女がお仰る事と丈夫さんのお心と、萬一にも違った所は有りますまいか。」
と問うた。此の一語に、槙子の命が繋(掛)かって居ると云っても好い。
 母御「間違いが有ると云ひ度いけれど、少しも間違いが無いのだから此の通りに云ふのです。出来る者なら何うか和女(そなた)と丈夫との間を纏(まと)め度いと祈って居る私しだもの。言わずに済むなら、何で此の様な事を云う者か。私の辛さも察してお呉れ。」

 こうまで邪見に振り捨てられようとは、既に明白に振り捨てられた今と為っても、合点する事が出来ない程である。槙子は全く十分間、単に無言で、身動きもせずに居たが、その間に恋も悲しみも過ぎてしまった。心の中は唯だ悔しいと云う一念に塊まった。徐に首を垂れて、

 「エエ、余りなお心です。」
と歯を食いしめて云い、更に又立ち上がったが、今度はもう何の未練も無い。イヤ有ってもそれを見せないのだ。此の様にせられて、未練の様子を見せるのが又悔しさの一つになる。真に必死の思いとは此の時の槙子の状態だろう。

 土の様な青い顔に、唯だ一点、唯両点、火の燃えて居るのは眼である。確かに母御の顔を見詰めて、
 「分かりました。伴野夫人ーーー。」
 もう阿母(おっか)さんとは云わない。

 「何うか此の次、貴女の御子息に手紙をお送りの時、槙子の心をお伝え下さい。槙子ははもう手紙も送らず、言葉も交えません。槙子を妻と思わない人を、槙子は夫とは思いません。槙子が伴野の姓を名乗らなければ、生まれた子も伴野の姓を名乗らず、伴野一族の方には、再びお目に掛りません。

 今日槙子が此の様に謝罪(あやま)っても、お許し下さらないと同じ様に、他日槙子へ謝罪る事が有ろうとも、槙子は許すと云う事を知りません。イイエ、是だけの言葉では御安心出来ないでしょうから、証文の代りに、槙子の方から直ぐに離婚の裁判を起こし、御安心の出来る様にして差し上げます。ハイ何うか是だけの言葉をお伝え下さい。そのお手紙の着く頃は、丁度法律とやらが物を言う時でしょう。」

 是だけの言葉を残して槙子は坐を立った。母御は涙を止める事が出来ずに泣いた。
 「槙子や、槙子や、その様に恨んでお呉れで無い。私し等母子は、和女(そなた)がそう恨むほど邪険《いじわる》な事ばかりもしては居ない。」
実に母御の心中は察すべきである。邪慳な事をして居ないばかりか、他人に出来ない又と無い親切を尽くして居る。その親切の為に、却(かえ)って不親切と思われるのだ。

 槙子はやがて次の間に行き、脱いで置いた帽子と外套とを身に着けたが、フト思い浮かんだのは、丈夫にこそ恨みは有れ、母御に恨む所は無い。挨拶もせずに立ち去っては、却(かえ)って此の身の手落ちになると、立ち返って、
 「貴女には永い間御親切をばかり受けました。此の様にお分かれするのは残念に堪えません。」
と云い、母御の涙に濡れた顔に恭(うやうや)しく接吻を残して、そうして立ち去った。後に母御は声を放って、

 「是だけの次第を直ぐに丈夫へ知らせて遣り、丈夫の方から真の事情を槙子へ打ち明けさせる事にしよう。何が何でもこう邪慳《意地悪》とのみ思わせるのも罪が深い。思われる方も我慢が出来ない。」
と云って泣いた。

 この様にして愈々(いよいよ)離縁の裁判と云う事にまでなって来た。



次(本篇)六十二


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