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hitonotuma64

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5.15


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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十四 「夫婦共有の財産」

 「発狂」
とまで鐡案(てんあん)を下す鈴子の意地の強さは、次男が思ったより上である。何とか更にその又上を越す丈の態度を取らなければ自分の方が負色になるかも知れないと、少しの間に次の言葉を考えた。云わば次男の方が早や足許(あしもと)しどろに成ったのだ。

 女医者の様子は益々真面目さを増す許かりで有る。初めの少しマゴついたのに引き代えて、今は全く不見不知(みずしらず)の患者を扱う様な状況とは成った。そうして真実に病源を一考する様に眉を顰(ひそ)めて、

 「ハテな、日射病からでも、脳に異常を来たしたのでしょうか。」
 次男「イイエ、日射病では有りません。病源は遠い事です。極小児の頃から、ハイ小児の頃の「ままごと」などから知らず知らずにーーー。」

 女医者は皆まで言わせない。
 「イイエ、その様な事から此の発狂が来る者では有りません。尤も未だ真の発狂と云う程では有りませんから、今の中の養生が極大切です。」
 次男「では療治の法がお分かりに成りましたか。」

 女医者「私はその様な問を患者から受けた事は有りません。明白な発狂の第一歩ですから、無論療治の方は分かって居ます。先ず第一に食物の注意を成さらなければ。」
 次男「胃の方は至って健康です。」

 女医者「狂人は通例胃が良いのです。兎に角最も忌み緯(つつし)むべきが酒です。酒は厳禁成さらなければいけません。総て脳を刺激する様な物が悪いのです。煙草も呑む事を止めなければ。そうして常の食物は麺麭(パン)と少量の肉、それで足りなければ、後は粥で補うのです。」

 次男に取っては随分辛い言渡しである。
 「それは仲々守り難いーーー。」
 女医者「守る見込みが無ければ無益です。是きりで申しません。」
と云い早や診察の終わった事を示す様に、呼び鈴へ手を掛けた。遠慮無く次の患者を呼び込む態度である。」

 次男は、
 「イヤ守り難くとも守りますから、何うかその次の御注意を。」
 女医者「第二は身持ちです。夜更かしが最も悪い。朝寝も謹まなければいけません。それに届き難い望みなどを起こして、心を煩悶させるのが最も悪いのです。」

 一々灸(急)所を攻めて来る。
 次男「それよりも更(もっ)と良く効く良薬が。」
 女医者「御免下さい。私は患者の方から薬を言い聞かされる事は致しません。」
 次男「でも私は、何よりも良く効く薬を知って居ますからーーー耳に附いているその声に、唯だ諾(うん)と云う響きを、発せさせさえすれば。」

 女医者「それほど良く御存じなら、何で診察を受けに来(い)らしった。」
 次男「貴女で無ければ、その処方を与える事が出来ませんから。」
 女医者は出し抜けに、強く鈴を鳴らした。毎(いつ)もの患者を呼び入れる時とは、鳴らし方が違うので、驚いて以前の使用人が飛んで来た。之に向かって、

 女医者「付き添い人も無しに、此の危険な患者を手放して寄越すとは。」
 使用人は合点が行った様に、小声で、
 「狂人ですか。」
 女医者は極めて真面目に頷いた。使用人は一入声を潜めて、
 「騙してでも連れ出しましょうか。」

 女医者「若しもの事が有るといけないから、其方がここに附いて居てお呉れ。」
 次男は自ら敗北した者と認める譯に行かない。
 女医者「彼方の御姓名は」
 次男「伴野次男」

 女医者は薬の処方を書いて差出し、
 「毎日此の薬を三回づつ、そうして飲んでしまった時に又お出でなさい。食物、身持ち及び此の薬と、是だけの三箇条に附き、私しの言った事を堅くお守り成さらなければ、再び診察しても無益ですから。」

 次男は兜を脱ぎ掛けた。今まで真面目で有った顔に微笑を浮かべて、
 「イヤ冗談では無くーーー・」
 女医者「医師は冗談を云う職業では有りません。今の三箇条を厳重にお守り成さい。」

 次男は傍に使用人が、若しも違えば摘み出そうと云う見脈(けんまく)で控えて居るので、最早や何の術をも施すべき余地が無い。切めては握手でもして去ろうと思い、
 「イヤ有難う御座いました。」
と云い手を差し伸べた。

 女医者は、その手には気が附かない振りで、
 「モシ、ここは慈恵病院では有りません。」
 去るならば診察料を払って行けとの心で有る。
 次男「アア診察料ですか、如何ほど」
 女医者「一百円」

 次男「は何所までも窘(いじ)められるかと驚いた。」
 女医者「診察料は危険の度に応じます。伝染病者と発狂者は格別です。若し付添人が連れてお出で成されば、その半額で二回診察致します。」

 次男「診察料は此の次に来た時に差し上げます。」
 女医者「いけません。それは院規に背きます。」
 傍に使用人の居る間は、幾等狂人扱いにせられても、反抗する譯には行かない。余りに残念だから、不意に思い出した様な振りをして、

 「オオ貴女に内談が有りますが、少しの間、別室で。」
 今度は使用人の方が驚いた。此の狂人に主人を別室などへ連れ行かせて成る者かと、院主に目配せすると同時に、自分が鈴を鳴らして次の患者を呼び入れた。実にほうほうの体とは此の時の次男の事だろう。

 彼は仕方なく高い診察料を出して、テーブルの上に置いた。そうしなければこの小間使いに摘まみ出されては大変である。
 次の患者は例の高襟(ハイカラ)である。此の高襟が何れほど長く診察せられるか、少しの間見て居たいと、前の高襟と同様な未練が有るけれど、宛(まる)で小間使いが、囚人に附いた看守人の様に次男の背後へ着いて一寸も離れない。

 全く追立て送り出すのである。実に色男大失敗さ。仕方無しに送り出されてしまったけれど口の中で、
 「ナニ他人とは思わないから、アノ様な法外な診察料を取ったのだ。今に夫婦共有の財産へ繰り込まれるから、アノ倍だとしても惜しくは無い。」
と呟いた。



次(本篇)六十五


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