巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

hitonotuma65

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

since 2021.5.16


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)六十五 「何よりも有難い」

 女医者の許から追立られる様にして、次男は我が宿へ帰ったが、考えて見ると何うも自分の手際より鈴子の手際が上で有った。自分は余ほど旨(うま)い積りで工夫して行ったけれど、工夫も何もして居ない、鈴子の落ち着きは加減には、敵(かな)わなかった。それはその筈で有ろうか。幾等工夫したとしても、此方が贋患者になるのは初めての事、向こうが女医者であるのは学校まで卒業しての上の事だもの。

 けれど全体の事を考え合わせると、次男は少しも失望しない。初めて此の次男が診察室へ入った時、鈴子が驚いて顔を紅め、殆ど叫び相にした様子など、確かに今以て此の次男を、意中の人として居る証拠である。

 酒を止めよ。煙草を止めよ。身持ちを謹めなどと云ったのも、妻が夫を諫める言葉に良く似て居る。決して他人と思って出来る忠告では無いと、独り此の様に解釈した。

 翌日はブルードに居る母の許を尋ねて行ったが、汽車を降りて間も無く、大津博士が今はその大津夫人である、昔は内山夫人の手を引いて来るのに逢った。多分は買い物にでも行くので有ろうか。

 その睦まじい様は、若夫婦も及ばない程に見受けられる。博士よりも夫人の方が先に次男を見、驚いて何時帰った、何時又出発するなどと、様々の事を問い始めた。博士はその傍で、唯だ口の中で「爾(そう)、爾」と云うのみで有ったが、やがて突然に、

 「次男さん、此の通り私と縁組の関係が出来ようとは思わなかったでしょう。」
と問うた。之は婚礼の喜びを述べて呉れないので、待ち兼ねての催促らしい。
 次男「イイエ、私しは前から、貴方と縁組の上から親類に成り度と望んで居るのです。」

 博士は怪しむ様に
 「エ、それでは私と内山夫人が、夫婦に成るだろうと期して居たのですか。」
 次男「そうでは有りません。私は貴方のお娘御を、何うか妻に貰い受けたいと、期して居たのです。」
 
博士は大いに喜んで、
 「爾(そう)、爾、私の娘輪子を、是は何よりも有難い。早く私も彼女(あれ)を縁附け度いと思い、当人もその望みで居ますけれど、何う云う譯か今以て縁談の言い込みが、有りませんので。」

 次男は初めて、輪子と云う大変な娘が有った事を思い出した。ここで明らかに云って置かなければ、何の様な事に成るかも知れないと、
 「イエ、博士、輪子さんでは無く、お妹の鈴子さんです。」

 博士は思い出して、
 「アア鈴子ですか。アレはロンドンへ行った切りで、少しも私へ厄介を掛けないから、殆ど忘れて居ましたよ。」
と云い、暫(しばら)く次男の顔を見詰めたが、賛成の意が浮かんだと見え、

 「アア、輪子では無く、鈴子の方を。爾(そう)、爾、爾、爾」
と云いつつ夫人の手を引いて去ってしまった。
 間も無く次男は直ちに母の隠居所へ着いたが、母御の喜びは管々しく記すに及ばない。話は直ちに丈夫の此の頃の有様から、槙子の事に移り、母御は、

 「私はもう相談相手は無し。少しの仕方で槙子からは恨まれ、丈夫からは叱られる様に成るから、独りで何うすれば好かろうと、途方に呉れて居ました。」
と云い、先日槙子が、充分な決心を持ってここへ来た事から、愈々(いよいよ)話が破裂して、槙子が正式に離婚を訴えると云い置いて去った事。又その次第を詳しく手紙に認め、丈夫へ後の指図を頼んで遣った事まで詳しく話した。

 次男「何うも阿母(おっか)さん、その正式の離婚と云うのが、今と為っては一番好いでしょう。兄さんも、唯だ思案に飽倦(あぐ)み、今は御病気の様に成って居ますから、それもナニ波太郎の事を明かしさえすれば、早く目鼻が開きましょうけれど、何うあってもその事は知らさずに済ませなければ、槙子が可愛想だと此の様に言って居らっしゃるから、槙子の方で誤解して離婚裁判に訴えれば、結局幸いでは有りませんか。」

 母御「そう云えばそうだけれど、離婚では何方(どちら)も可哀想だし。真に生木を割く様な者でーーーー。」
 次男「可哀想な事は実に可哀想です。私も弟の役目として、近日槙子さんの許へ行き、別に慰める言葉と言っても無いけれど、慰めて上げる積りです。兄さんにも受け合って来ましたから。」

 話は仲々尽きる事は無い。次男は三日母の許に逗留し、その次の日に愈々槙子を、伴野荘へ尋ねて行った。尤もその行き掛けに母御に向かい、同道なさらないかと勧めたけれど、母御は、
 「イヤ行かない方が好かろう。」
と言って、そのままブルードに留まった。

 我が家ながら、帰るのにさえ気が置かれるとは、実に不幸な一家の有様である。やがて次男は伴野荘に着いて、名刺を出した時、槙子は、育児室に居てその名札を受け取ったが、最早やこうまで事が破裂した暁だから、意地にも此の面会を断わり度い。けれど断わられない事情は、此の家が伴野一家の本邸であることだ。

 たとえ自分のせいで質(しち)受けが出来て、元の通り伴野家の物に為ったにせよ、離縁と決心を決めた上で、ここに居るのは気持ちが悪い。取り分け母御が、隠居所から帰られない為め、何だか此の身が、此の屋敷を横領して、母御をさえ近づけない様に世間の人に見えはしないと、それが気に成ってならないので、今又此の家の次男が帰って来たのを、面会せずに追い返しては、益々何の様に解釈せられるかも知れないと、場合が場合だけに、細かな所まで気を廻して進まなければならないので、次男に逢った。



次(本篇)六十六


a:118 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花