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hitonotuma70

人の妻(扶桑堂 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)七十 「アア発狂したのだ」

 槙子の為には、運の尽きと云う時が来たので有ろう。アレほど丈夫の母御が知らせまいとして苦心した大の秘密を、意地の悪い他人から聞かされる事に成った。

 何れほど辛い想いかはさせ置いても、此の恥辱だけは免れさせ度いと、丈夫が祈った、その恥、その辱めが、今は槙子の頭上へ真向に降り下ろうとして居るのだ。

 「全体貴女と丈夫さんとの婚礼からして間違って居るのです。」
との輪子の毒々しい言葉が、殆ど部屋中に響き渡った。しかし是だけでは未だ槙子に、何の意味だか合点が行かない。輪子は語を継いで、
 
 「貴女は此の伴野荘に住んで居る権利さえ無いのです。誠の事が分かれば赤ん坊を連れて、ここを立ち退かなければ成りません。自分で伴野荘の女主人思って居ても、初めから女主人では無いのです。」

 余りに槙子を窘(いじ)め様と思い過ぎて、腹立たしい言葉ばかり先に出るから、何の事だか槙子には未だ分からない。
 輪子「丈夫さんとの婚礼が間違って居る柄は、丈夫さんの妻とは為って居ないのです。丈夫さんの妻で無い者が、何で此の家の女主人でしょう。」

 槙子はまだ怪訝な顔で、初めて口を開いた。
 「ハイ離縁の手続きが済みさえしたら、勿論伴野丈夫の妻では有りません。」
 輪子「イイエ離縁の手続きでさえ、何もその手続きに及びません。初めから夫婦に為れて居ない者に、何で離縁の手続きが要(い)りますか。」

 槙子「手続きが要らないならば、何で丈夫がその手続きに賛成したのでしょう。」
 輪子はここぞと、自分の背丈を引き延ばして、殆ど槙子の頭の上から雷鳴の様に声を落とした。

 「サアそこが丈夫さんの慈悲深い所です。貴女に誠の事情を知らせるのは気の毒と思い、貴女を傷(いた)わって、妻で無いのを妻で有った様に思わせ、本当らしく手続きだけをするのです。丈夫さんはそれで好かろうが、私し共が丈夫さんの友人として、黙(だま)って居る事は出来ません。

 貴女の所為が余りに丈夫さんの慈悲に甘え過ぎるのです。妻でも無いのに妻らしく離婚を受けて好い顔をして居るとは、エエ、貴女は丈夫さんとの結婚が人並みの結婚だったと思いますか。」

 譯は良く分からないけれど、槙子は少し色を替えた。
 「ハイ少しも結婚に間違った所は有りません。私は結婚の前に、法律家にも聞き合わせました。」

 成るほど槙子が弁護士の許を尋ね、その鑑定を請うた事は有った。
 輪子「何うも貴女の悟りの悪いのには驚きます。結婚の式が何うで有ったにせよ、アノ時に貴女には、外に本当の夫が有ったではでは有りませんか。」

 槙子「エ、エ」
 今まで無言で傍に居た風間夫人は、輪子の攻め方の拙(まず)いのを見て、歯痒(はがゆ)さに耐えられない。今は黙って居られない事に成ったと見え、充分自分の身に勿体を附けて立ち上がり、

 「コレ輪子さん、貴女の様に、唯だガミガミ云ったのでは、槙子さんが合点する事が出来ないのも無理は有りません。どれ私が良く分かる様に槙子さんへ云って上げましょう。槙子さん、良く落ち着いてお聞き成さいよ。」
と先ず貫目の有る前置きを置いた。

 実は此の様な、気味の好い宣告を、輪子の様な不調法な口でさせるのは惜しいとの心も有る。爾(さ)れば自分は非常に落ち着いて、細い良く分かる声で徐々(静々)と、

 「実は槙子さん、貴女の前の夫波太郎が未だ生きて居るのです。貴女が彼は死んだ事と思ったのが間違いでした。貴女はアノ時、自由な後家の身では無く、夫の有る身で有ったのです。それだから外の男と結婚する事は、出来ず、した結婚は結婚では無く犯罪です。

 その波太郎が生きて居て、而も此の国へ帰って来ました。丈夫さんに逢いました。それだから丈夫さんは、此の国に居られない事に成って、貴女を捨てて印度へ行ったのです。」

 その声の細い丈に、その言い方の落ち着いて居る丈に、猶更恐ろしく聞こえた。槙子は余りの事に背後(うしろ)へ三足ほど蹌踉(よろめ)いた。そのまま床の上に倒れでもするかと思われたが、倒れもせず、宛(あたか)も天にでも訴える様に手を上げて又進み出て、

 「エ、何と仰る、何うかもう一度聞かせて下さい。」
 風間夫人は、此の上も無い珍味をもう一度味わい直す様に、又言葉を落ち着けて、

 「イヤ余り意外の事柄ゆえ、一度で呑み込めないのは御尤もです。言い直せば、貴女は二重結婚と云う畜生道へ落ちたのです。余りな一家一族の恥辱だから、丈夫さんは波太郎さんに口止めの金を沢山遣って、御自分は直ぐに印度へ去ったのです。アノ様な気の弱い方ですから、貴女にはその事を知らせる事が出来ないのです。」

 槙子は呼吸(いき)も術(せつ)ない程の声で、
 「丈夫がその様な事を仕たのですか。それを私へ知らせては成らないと思って、アアその親切が分からなかった。分からずに今が今まで意地の悪い方とのみ恨んだのは勿体ない。

 今と云う今からは、身を粉にしても丈夫さんに、此の恩を返さなければ成らない。風間夫人、輪子さん、良く先マ、その事を知らせて来て下さった。」

 むしろ喜ぶ様な様子にも見える。多分は驚きもし、恥入りもし、或いは泣き悲しんで、気絶迄するだろうと、二人が心待ち待って居た所とは、何だか様子が違う様だ。輪子は再び咆えた。

 「貴女は恥辱と云う事を知りませんか。自分の身が畜生道へ落ちた事を恥じませんか。アア、発狂したのだ。発狂したのだ。」
 槙子は戸の所に走り寄り遽(あわただ)しく叫んだ。
 「水を、水を」

 やがて召使いの者が持って来る水に咽喉を潤し、二度三度胸を撫でて漸く心も落ち着いたか、三度進んで風間夫人の前に立った。今度は今までの様な、悲しみの痕が未だ消えない槙子では無い。顔に血の色も見え、眼も何だか力附いて居て、輝いて居る様に見える。

 槙子「貴女がたは私を何者とお思いです。」
 殆ど詰(なじ)る様に問うた。風間夫人も或いは発狂かと思う念が浮かんで、何とも返事を発しない。槙子は語を継ぎ、

 「畜生道などと、その様な事を仰れば私の夫が、只は許して置きませんよ。」
 輪子「貴女の夫とは誰の事です。」
 槙子は凛とした声で、
 「今は印度へ行っている当家の主人伴野丈夫です。」
と云い、再び戸口に行って下部(しもべ)を呼び、

 「此の方々を送り出してお呉れ。」
 もう面会が尽きたから帰れとの仕向けである。益々意外な様が募る。愈々(いよいよ)発狂に違い無いとの念が両女(ふたり)の胸に、一様に満ちた。風間夫人は小声で輪子を顧み、

 「余り事柄が甚(ひど)いから、此の様な事に成りはしないかと思ったよ。可哀相に、当人は自分で何を云って居るやら、知らないのだろう。帰りましょう。」
 輪子「帰りましょう。」

 如何に意地の悪い女と云えども、狂人の相手では少し恐れを催さない譯には行かない。両女はそのまま玄関へ出ようとすると、槙子はその背影(うしろかげ)を拝まない許かりの様で、

 「本に貴女方のお影で助かりました。輪子さん、風間夫人お両人は恩人です。此の家の為め、丈夫の為め、私の為めに」
輪子は益々気味が悪い。風間夫人に、
 「本物ですねえ。」
と細語(ささや)けば、

 夫人「何うも本当の発狂らしい、それとも何か私し共の知らない事情が、もう一つ奥底に蟠(わだかま)っているのか。なにしろ早く帰ろうよ。帰って様子を見て居れば、遠くない中に、何方(どっち)とか分かるだろう。」

 真に這々(ほうほう)の体で去ったのは、少し気持ちの好い所ではあるが、それにしても槙子は、真に輪子の謂う、「本物」だろうか。将(は)た又、風間夫人の言葉の様に、何かもう一つ奥に、変わった事情が有るのだろうか。是は暫(しばら)くの疑問である。



次(本篇)七十一


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