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hitonotuma8

人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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  人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (本篇)八 「竹子の方」

 一時は目に角を立てても、風間夫人の方は輪子と違い、仲々思慮ある女だから、露骨には口に出して槙子を窘(いじ)める様な事はしない。それに未だ槙子の気質も知らず、自分の敵に成る女か味方として都合の好い女か其の邊も分からないから、先ずそれと無く偵察すると云う態度を取った。

 偵察する気で槙子を見ると、第一に怪しく思われるのがその身分だ。豪州下りから人の厄介に成りに来た女が、何してこうも品格を備えて居るだろう。抑(そもそ)も何者の児で有ろう。何の様に育ったのだろうと、夫人は早や其の邊に探りを入れて、

 「槙子さん、婚礼前の貴女の御苗字は何と云いました。私は、良く貴女に似た方を知って居ますが、若しその方の血続きでは有るまいかと思います。」
 是も嘘ばかり云って居る。
 槙子「ハイ苗字は春山と申しました。」

 春山とはさほど珍しい姓でも無いが、又そう有り触れたのとも違う。
 夫人「アア春山では私の思うのとは違いますが、誠に美しい苗字ですネ。シタが何州の春山です。春山の姓で一番名高いのはデボン州に在りますねえ。是は非常な金満の貴族ですが。」

 槙子「イヤ私は幼い折に父に連れられて豪州へ行きましたので、生まれ故郷が何所で有るか自分では知りません。それに春山と云う姓さえ、本当に自分の姓だか或いは父が勝ってに附けたのか、それさえも確(しか)と申す事は出来ません。」
 誠に正直な哀れむべき返事では有るが、風間夫人の目には少し槙子の値打ちが下がった。
 
 「では此の国を喰い詰めて豪州へ出稼ぎに行った貧乏人の娘である。」
と腹の中で括(くく)ってしまった。
 けれどそれにしては、矢張(やっぱ)り天然の品格が合点が行かない。
 「貴女はデポン州と云う名も聞いた事は有りませんか。」
 槙子「有りません。此の国へ来たからには切めて自分の生まれた土地だけも知り度いと思いますけれど、何うも致し方が有りません。」

 殆ど悄然(しょうぜん)と凋(しお)れて云った。風間夫人は常に暇さえ有れば貴族名鑑を繰り返し、誰か貴族の中に妻を失った人は無いかと油断なく気を附ける連中の一人だから、貴族の事などは余程詳しく知って居て、相手がその邊の事に暗いと見れば、直ぐに自分が貴族の友達で有るかの様に仄(ほの)めかし始めるだ。

 「それは残念ですねぇ。若し貴女がデポン州の春山家にでも縁づいて、縁でも引いて居る方なら、私は同道して、久しぶりに春山伯にお目に掛りに行きますのに。イイエ本当に良く下情に通じた親切な方ですよ。」
槙子は感心して聞いて居る。

此の夫人の此の様な話を、冷やかしもせずに聞く人は先ず少ないので、槙子の聞き方が気に入った。利口な夫人でも詰まらぬ弱点が有る者だ。此の様な時に自分の博識を示さなければ、示す時が無いと思ったか、自分の親類の事でも話す様に、春山家の事を話出し、凡そ卅分ほども続けたが、その終わりに、

 「今の春山伯の姉御と云うのが大した方ですよ。もう六十幾歳に成るでしょうが、凡そ英国の婦人で、此の方ほどの金持ちは無いでしょう。若い頃に金満の所天を持ち、それが有る丈の財産を此の方へ残して死んだ者ですから、一しきりは裕福な後家さんだと云って、貴族社会で二度目の夫に成り度いと運動した人が、幾人有ったか分かりません。

 けれど此の方は、自分の金に目を呉れる人を夫にするのは厭だと云い、それに先夫の財産を粗末にしては成らないと云って、一生懸命にそれを管理し、男も及ばないほどに良く注意して、遂に今まで後家を守り通したのです。今でも竹子の方と云えば、随分人に記憶せられて居るのですよ。」

 今まで「ハイ、ハイ」とて聞いて居た槙子が、此の名を聞いて、何故だか、
 「その名は竹子と云うのですか。」
と問返した。
 夫人が此の問に励まされて、猶(なお)も博識を示そうと身構える所へ、一方の座から博士が立って来た。浮世の事には少しも興味を示さない人だけれど、仲々洒落た所が有る。軽く夫人を冷やかして、

 「余り貴女の許へは、春山家から招待状など来ませんねえ。爾(そう)、爾、爾」
と云って、更に槙子に目配せしたので、夫人は話の先を折られ、槙子は又、先刻波太郎の死ぬるまでの事を話そうと博士に約束した事を思い出し、立って博士に連れられて、その部屋へ行ってしまった。その後で輪子は直ぐに夫人に向かい、

 「叔母さん、大層槙子さんがお気に入ったと見えますネ」
と幾分の恨みを帯びて云った。併し決して気に入ったと云う譯では無い。
 「イイエ未だ何方(どちら)だか分かりませんが、決して愚かな女では有りませんよ。」
と答えた。



次(本篇)九

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