巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻 バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳

         

     (序篇)一  「母子の大願」

 ここに説き出すのは或人々の身の上である。作り話や小説の様にうまく辻褄(うじつま)は合わないかも知れないが、読んでしまった後で考えると、成るほど小説よりも不思議だと驚くかも知れない。あるいは驚かないかも知れない。
 兎に角余り辻褄は合わないのだから、初めの方を「序篇」として、成るたけ早く書いてしまい、それから愈々(いよいよ)「人の妻」の本文とも云うべき所に取り掛かろう。
 人の妻とは何の様な意味であるか。それも読んでしまえば合点が行く。

 さて、英国の北部で、最も景色の好い、そうして立派な屋敷はと云えば、誰も 伴野家荘に第一に指を折る。是れは代々伴野と云う貴族の住んで居る荘園で「野の花」に出た瀬水城よりもっと眺めが好い。瀬水城の様に厳めしい城では無いが、山の小高い所に在って、川も有り、牧場も在り、梅や桜の林も楓(紅葉)や檞(くぬぎ)などの老木(おいき)の森も有る。幾年住んでも、飽きると云う事の無いのは此の荘園だろうと、昔からの評判だ。

 所が、先代と先々代との主人が、二代続いて道楽者で有った為め、今は非常な貧乏屋敷になって居る。恐らく英国の貴族で、第一等の貧乏と云ふのも矢張り此の伴野家に指を折るだろう。屋敷に付属している田畑や牧場などの中、売る事の出来る部分は、とっくの昔人手に渡り、残って居るのは唯だ、先祖からの遺言と法律の為に禁ぜられて、売る事の出来nあい部分だけである。けれど是も重い抵当と為って居る。

 借りた上にも又借りて、屋敷の収入は殆どその利子になってしまう。幾等法律に禁じて有っても、終には人手に渡る外は無い。唯だ法律に禁じてある丈、何時まで経っても受け戻す権利が此方(こっち)に在るのだけれど、その時には利子も先方の得手勝手に計算されるから、非常な高い物に附く。云はば先ず受け戻す権利が如何までも我が手に在ると云う丈の事で、実際は人の物と成ってしまうのだ。

 可哀相に、此の貧乏屋敷を支え、何しても人手に渡さない様に仕ようと一生懸命に貧乏神と戦って居るのは、当年二十七歳の当主伴野丈夫(じょうぶ)と、其の母御との二人である。
 丈夫の父が数年前に、借金ばかりを遺身(かたみ)に残して死に、丈夫の母御は後家さんと為ったけれど、仲々えらい方で、何しても自分の死ぬ迄に此の「伴野家荘」を受け出さなければ成らないと決心して居る。そうして息子丈夫も母御の気質を受け、決心の堅い質で、父の倒した財産を再興すると云う外に目的は無い。殆ど夜の目も寝ない程に苦心して居る。

 通例の場合ならば、何しろ貴族の当主だから、もう花嫁も有る頃だ。若しくは諸方の娘や母達から引っ張り凧に成って居る時分なのに、未だ妻も無い。殆ど交際の場所へ出た事も無いのみならず、何を見ても唯だ面白く感ずべき年頃なのに、自然と気持ちが陰気になり、顔に笑みを浮かべる事などは絶えて無い。そうして年も艱難の為、余程老(ふ)けて見える。勿論年頃の事だから、時々は艱難が厭になり、寧(いっ)そ自棄(やけ)でも起こそうかと気の動く場合は有る。

 又、計算などに疲れ果てて飽き、こう利子の方が早く進んでは、何時まで経っても浮かぶ瀬は無いと、殆ど絶望して沈み込む事も有る。けれど彼はその度に直ぐ気を替えて、屋敷の一番高い岡の天辺(てっぺん)へ上り、昔此の家の領地で有った四方の景色を見廻して、
 「此様な美しい荘園を、エエ、人手に渡して堪る者か」
と叫び、自分で自分を引き立てて、そうして奮発心を呼び起こしては帰って来る。そうして又も貧乏と戦いを続けて行く。

 この惨(むご)たらしい母子の間に、お負けに厄介者が、二人ある。其の一人は母御の従妹で、是も亭主を失って、寄辺の無いままこの家へ転がり込んで居る。併し之は矢張り心掛けの好い婦人で、唯だ喰う丈の事だから大した費用も掛からないが、今一人は大違いだ。之は丈夫の弟で、名を次男と云い、当年二十三歳の若者だが、時々母と兄とを、泣き面に蜂と云う様な目に合わせる。

 彼は誠に気の軽い男で、兄の様に貧乏と戦って行く決心は無く、家に燻(くすぶ)って居るのは嫌だと云い、兄に血の出る様な金を出させて下士官の株を買い、兵営へ住み込んだ。(英国では休職士官の株を売り買いするのだ。)そうして時々小遣い銭を強求(たかり)に来る。小遣い銭と云っても華美(派手)な軍人の事だから少しでは無い。

 兄丈夫が夜の目も寝ずにやっと溜めて置くのを殆ど根こそぎ持って行く。兄は厳重な質だけれど、又思い遣りの深い所も有って、根が馬鹿で無い弟だから、その中に却って手助けになる時も来ようと、許せる丈許して居たが、遂に、是ではとても大願の届く時は無いと、兄に全く絶望させる様な時が来た。

 其れは外でも無い。或る日の事、弟は悄々(しおしお)と帰って来て、兄に大変な事を打ち明けた。実は人の手形を偽造して、その期限が来たのだから、ここで千ポンド(現在の約4、200萬円)払って呉れなければ牢へ行かなければ成らないとの事である。千ポンドなどと云う大金が何して丈夫の力に合う者か。



次(序篇 (二))

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