巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         

       (序篇)三 「人間の言葉」

 総て厳格な人は余り親切心が無さ相に見えるけれど、本当の親切は却って厳格な人に在る。親切らしい人の親切はややもすると口先ばかりで、中途から消えてしまう事も多いが、厳格な不親切らしい人の親切は終わりまで貫く者だ。少なくとも伴野丈夫(じょうぶ)の親切はこの類だ。是が本当の親切なのだ。

 次男は殆ど感奮した。
 「兄さん、兄さん、貴方へ御厄介を掛ける度に私はもう是れ限りで、佶(きっ)と行いを改めると云い、そうしてはその言葉がいつも反古(ほご)に成って仕舞いますから、今更何を云っても、又かとお笑いでしょうけれど、今度と云う今度はしみじみ自分の愚かさを悟りました。是からは全く真人間に成りますから、この度の事ばかりはお許し下さい。

 とても最(も)う兵営に居ては、傍(はた)が波太郎の様な悪い友達ばかりですから、私は早速今の職務を売ります。そうしてその売った金を資本(もとで)に、何所か友達の無い外国へでも行って自活の道を求め、再び貴方や阿母(おっか)さんに決して御迷惑は掛けない様にしますから。」
と全く真心を出して詫びた。此の様な事には兄丈夫は厳格である

 「そうするのが人間の道だ。出来るならそうせよ。」
と膠(にべ)も無く言い渡した。
 是から丈夫は、明日愈々(いよい)よ大津博士の許を尋ねて行くに就いては、博士の家の有様を、一応次男に問うた。

 次男「ブルードと云ふ土地です。明日私が兵営に帰る道ですから、そこまで一緒の汽車で行きましょう。」
 丈夫「ブルードは知って居るよ。この家の先祖が隠居所にと云って小さい別荘を建てた近所だろう。」

 次男「そうです。隠居所の直ぐ傍(そば)で。天文台と化学試験室との有る家ですから直ぐに分かります。」
 丈夫「それでは今に、この家と博士の家は近所交際をする事になるのだ。」
と丈夫は嘆息と共に云った。

 その心は、遠からずこの伴野荘を人手に渡し、自分は母と共に先祖の建てた隠居所へ蟄居(ちっきょ)すると云うのに在るのだ。次男は今更の様に、
 「愈々(いよいよ)隠居所に引き籠るお積りですか。」
 丈夫「ナニ心配するな。貴様の事の有る無しに拘らず、この家に居ては費用が張るから、何うしても蟄居の外は無い様に成って居る。この家は堅い契約を定めて債主に渡せば、阿母さんの生活の料だけは充分出て来る。俺はその上で役人にでも成って、少しづつ貯金する。」

 次男「兄さん、何度云っても同じ事ですが、もう決してーーー。」
 丈夫「そうよ。二度と母様に御心配を掛けない様にして呉れ。」
 次男は、
 「きっと仕ます。きっと仕ます。」
と繰り返すのみである。

 丈夫「シタガ、博士の家には大勢の家族が有るか。」
 この問に何故か次男は少し顔を赤くし、
 「ハイ波太郎の妹が二人あります。姉もある相ですが是はロンドンへ縁附いて、家には居ないのです。」

 丈夫「それ切りか。」
 次男「ハイ波太郎の母は先年亡くなりましたが、仲々親類の多い家で、いつでも遠い縁類の伯母さんだとか、近い伯母さんだとか云って、趣味の話ばかりする婦人が二三は逗留して居ます。」

 丈夫「博士は」
 次男「大抵、化学室か、天文台へ閉じ籠り、少しもこの世の事には執着しない様です。偶(たま)に出て来た時に見ると非常な善人で、私などを自分の子の様に可愛がります。」

 丈夫「子の様に可愛がって呉れる恩をば、手形偽造で返すのか。併し貴様が全く後悔して居るなら諄(くど)くは云わない事にしよう。」
 是だけで話は終わり、丈夫は母の部屋に行き、夜の更けるまで相談したが、全くこの伴野荘を人手に渡す話を附けたと見え、時々母御の泣き声が洩れ聞こえた。」

 そうして翌朝、食事の済んだ後になると、次男は一通の手紙を持って、昨夜に引き替え、勇み立って兄の許へ来た。
 「兄さん、何も彼もうまく行きました。之をご覧下さい。」
とその手紙を差し出した。

 丈夫が受け取って読んで見ると、博士の息子波太郎から来た手紙で、到頭父に打ち明けた所、父が早速千ポンド出して、その手形を払って呉れたとの旨を認めて、その終わりに、

 「父は少しも君を非難せず、罪は全く僕一人に在る様に云い、僕が二人前説教を聞きました。君も若(も)し未だ真四角な君の兄に打ち明けていないならば、打ち明けずに済ます方が宜しいと思います。」
と非常に乱暴に書いて有る。丈夫は読み終わって唯だ顔を顰(しか)めた許りで、少しも嬉しそうには見えない。

 次男「兄さん、もうお出で成さらなくても宜くはありませんか。」
 丈夫「馬鹿を云え、猶更ら行かなければ成らない。金の半分は貴様が使ったと云うでは無いか。それを残らず博士に払わせ、知らぬ顔が仕て居られるか。直ぐに弁済は出来ないけれど、何とか言い訳して、返す約束だけでもしなければ成らない。」

 丈夫の言葉は全く人間の言葉である。人間の世でも人間の言葉を聞くのは極稀れな者だ。
 この様にして此の日の昼過ぎに兄弟は汽車に乗り、プルードの停車場まで行くと、兄の方は分かれて降りた。

 口には最早や何とも云はないけれど、実に辛い用事である。若し博士が何にも知らない中なら、却って仕易いけれど、知って既に全額を払った後では、直ぐに現金を出して返済するでは無し。益々きまりの悪い断わりを云わなければ成らない。この様な場合に臨んで、此の様な用事を、我慢して果たしに行ける若者は、沢山は無いだろう。

 やがて博士の家に到ると、如何にも博士の住み相な構えで、俗務を話すには極まりの悪いほど全体が静かである。
 丈夫が玄関に近いづいたとき、横手の窓の内で、水色絹の女服の姿がチラリと見えた。多分次男の話した娘二人の中の一人だろう。このチラリと見えた姿が、自分の身の後々に何の様に影響するだろうなどとは、丈夫の少しも考えない所である。

 つかつかと玄関に行き、取次の男に名刺を渡して、博士に面会したい旨を話すと、男は危ぶみつつ、
 「御在宅ですけれど、お手が離されるか何うか伺って見ましょう。それまで此方でお待ち下さい。」
と言って丈夫を控所の様な小洒(こざっ)ぱりした部屋へ通し、そうしてその身は退いた。

 ここに丈夫は五分間ほど控えて居ると、静かに戸を開け、静かに入って来た人がある。博士では無い。今の水色絹の姿である。丈夫に対して少し恥ずかしそうであるけれど、それほど気兼ねの様子も無く、云はば親類をでも迎える様な状(さま)で、丈夫の前まで歩んで来た。



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