巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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 人の妻   バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (序篇)六 「十七八ぐらいの令嬢」

 学問に熱心な人は、兎角浮世の事に疎いが、大津博士はそのうちでも甚だしい。友人から天文気違がいと云われて居るが、天体の事なら何から何まで知って居るけれど、此の世の事は何から何まで忘れてしまう。利益にも損失にも関心は無い。

 自分の好きな学問の為なら幾等でも時間を費やすけれど、浮世の用事の為に時を取る事はたとえ一分間でも惜しい様子だ。それだから俗人と話す時は常に燥々(いそいそ)して、先方の言葉が終わらないぬうち、
「爾(そう)、爾、爾、爾」
と幾個(いくつ)も幾個も返事する。分かった事を長々しく多弁(しゃ)べられるのが辛くて成らないのだ。けれど根は非常な善人だ。年は最早や六十でも有ろうか。髪の毛が清絲(すがいと)の様に真っ白だ。

 博士が丈夫(じょうぶ)に向かっての最初の言葉は、
 「貴方の弟でしょう次男さんと云うのはーーー。次男さんが屡(しばしば)来るのに、何故貴方がお出でが無いかと、私は怪しんでおりました。」
 無細工な言い様では有るけれど、博士としては是が非常な世辞なんだ。

 次に発したのは、
 「今夜は是非私共で晩餐を召し上がって入らっしゃい。」
と云うに在った。是はタッた今、輪子に云われた事だけに覚えて居るのだ。此の様子で見ると手形の件は既に忘れたかも知れない。

 丈夫「」ハイ有難くお受けは致しますが、兎も角要談を済ませまして。」
 博士は早や、
 「爾(そう)、爾、爾」
と連発した。
 要談と聞いて輪子は起(た)ち、惜しそうに丈夫の顔を見て退いた。
 若し輪子の所存が此の丈夫を虜(とりこ)にし度いと云う事に在るなら、それは初対面としては出来る丈成功した。

 丈夫は何だか此の嬢に去られるのを惜しく思った。けれどその実此の嬢は全く去った者では無い。此の部屋を出ると直ぐに、大急ぎで次の部屋に入り、誰も来ない様に戸の錠を下ろし、そうして空の暖炉(ストーブ)の前に平伏(へたば)り、殆ど顔を炉の中に突っ込む様にした。

 何の為だろうと問う迄も無い。此の部屋と次の部屋とは同じ暖炉(ストーブ)が背中合わせに成って居て、何所かに破損した隙間でも有るのか之へ耳を接して居れば丈夫と父との要談が大抵は聞こえるのだ。戦争には間者が必要だと云うが、恋にも必要だと見える。そうしてその間者を大将自身が勤めるのだ。イヤ必ずしも恋の為にのみでは無い。誰に対しても常に此の様な事をするのだろう。

 博士と差し向かいになるが否や、丈夫はすこし面目無さそうに、 
 「此の度は弟次男が、一方ならぬ御迷惑を掛けまして、何とも申し訳も有りません。金子の所は私が出来る丈け速やかに御返済しますから、何うか罪だけはお許しを願います。」

 博士は怪訝な顔で、
 「エ、次男さんが何をしました。アアそうでした。そうでした。私は今日の天気が好いから今夜きっと十分な観測が出来るだろうと思い、その様な事は忘れて居ましたよ。アレは何に、全く波太郎の仕た事ですもの。次男さんに少しも責める所は有りません。手形の期限が来れば直ぐに払う様に、銀行に言付けて有ります。」

 丈夫「速やかにト申しました所が、お恥ずかしい訳ですが、今年の末で無ければ御返済が出来ませんので、何うかそれまでの御猶予を。」
と言って殆ど果てしも無い推し問答に成り掛けたが、博士は時間が惜しいと思ったか、途中で不意にポキリと折れた様に、

 「では貴方と私しと半分づつ負担しましょう。お話しはそれ丈ですか。」
 仲々要領を得るのが早い。此の公平な定義には丈夫も同意せぬ譯にも行かぬ。同意して感謝の意を述べ掛けると博士は
「爾(そう)、爾、爾、爾」
と云って、早や室を出てしまった。

 出てしまったかと思うと、何か思い出したのか又直ぐに引き返して、
 「波太郎は悪人です。次男さんをアノ様な者と交わらせてはいけません。親しい人を皆悪事に引き込みますから、私は此の次の船で彼を豪州へ送る事に定めました。」
 丈夫「イヤ、次男も丁度その通りですから、私も彼に軍職を罷(や)めさせて(爾(そう)、爾)外国へでも出稼ぎさせる積りです。(爾(そう)、爾、爾)」。

 博士「今夜晩餐を共にする事をお忘れ成さるな。後で天文台へ行き宇宙の秘密を見せて上げます。」
と云い今度は本当に去ってしまった。その来るのもその去るのも。宛(まる)で彗星(ほうきぼし)の様である。

 間も無く丈夫は、召使いの者に、二階の一室(ひとま)へ案内せられた。取り敢えず客分として此の部屋を與えられたのだ。是れは多分輪子の計らいであろうと、丈夫は思った。そのうちに晩餐の時刻と為り、食堂からの案内が来たから、自分の着て来たままの服ながら、なる丈け衣紋を直して食堂へ行って見ると、ここには彼の波太郎が唯一人居る。

 再三度(りょうさんど)波太郎は次男と共に伴野家へ来た事が有るのだから、丈夫と知り合いだけれど。丈夫の方で大の嫌いである。成る可く唯だ黙礼で済まそうと程に丈夫は思ったが、波太郎は早や起(た)って来て、

 「是はお珍しい。アア彼の手形の事で、多分貴方がお出でだろうとは思いましたが、もうすっかり済みましたよ。」
 丈夫は非常に厳重な顔で、
 「父上のお慈悲で済んだにしても、悪事は矢張り悪事です。」
 波太郎「そう正直に云うのは間違って居ますよ。一月と経たないうちに、父は全く忘れて仕まいますもの。今夜でも星が三個か四個か飛べば直ぐに忘れますは。」

 云う事が一々丈夫の意見とは反対である。この様な是非善悪の別の無い男が、何して博士の様な善人の子に生まれたかと、丈夫は怪しい程に思った。
 かかる所へ又一人入って来た。是れは十七か八ぐらいに見える令嬢である。何の飾りも無い淡(あっ)さりとした衣服(みなり)では有るが天然の美人の上に、顔の」何所か」に賢い決心の有り相な様が現れて居る。

 他人の居るとは知らずに来た為であるか、それとも外に仔細があるか、丈夫の姿を見ると共に顔を真紅に染做して、そうして救いを求める様に兄波太郎に振り向いた。



次(序篇 (七)

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