巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (序篇)七 「波太郎の予言」

 やがて波太郎は此の令嬢を末の妹鈴子だと云って丈夫(じょうぶ)に紹介した。扨(さ)ては弟が慕って居るのは此の鈴子の方だなと、丈夫は直ちに見て取った。

 弟次男の慕うのも無理は無い。今まで自分が感心して居た輪子に、優るほどの美しさである。けれど丈夫は、美しい女と見て直ぐにその機嫌を取りに掛る様な、ハイカラ流の男では無い。それに先方も兼ねて次男から、此の丈夫の事を非常に厳重な気質と聞き、近づき難い人の様に心得て居るので、唯だ恥ずかしがるのみで、直接には口も利くことは出来ない。

 それでも此所へ輪子が入って来なかったなら、鈴子と丈夫の間に、多少の話は始まっただろうが、丁度輪子が遣って来て、丈夫を我物顔に自分の傍へ引き附けてしまった。
 こうなると波太郎はすこし手持ち無沙汰である。鈴子を呼んで一番離れた窓の所へ行き、丈夫にも輪子にも聞こえない様に、

 「御覧よ。和女の姉さんが、丈夫を虜に仕ようと思って勉めて居る。エ、今夜此の晩餐まで、丈夫を引き留めたのも、阿父さんでは有るまい。姉さんだろう。」
 鈴子と波太郎は日頃頗る仲が好い。
 「その様な事は知りませんけれど、先刻(さっき)取次が、初めて丈夫さんの名刺を持って来た時、姉さんの騒ぎは大変でしたよ。」

 波太郎「極まって居るわ。妻帯前の紳士が来れば直ぐに自分が先に出て応接してサ。では何だろう、その名刺を一時間経つまで、阿父(おとつ)さんの所へ持って行ってはいけないと、例の通り言い渡したただろう。」
 鈴子は少し笑って、
 「そうです。」

 波太郎「それから何だろう。逗留して居る二人の伯母さんに向かい、自分の事を充分に丈夫へ褒めて呉れたなら、縁談の出来た日に、新形の肩掛けを奢って遣ると約束しただろう。」
 鈴子「肩掛けでは有りませんよ、外套ですよ。」
 波太郎「面白い。面白い。丈夫の様な真面目な男は、決して女を疑うと云う事を知らないからネ。」

 遅かれ早かれ女の虜と為って、馬鹿な目に逢うに極まって居るよ。誰の虜と為るのも同じ事だから、輪子の虜にして遣ろうでは無いか。」
 鈴子は唯だ笑う許りである。

 波太郎「エ、面白いじゃ無いか。婚礼して後に、輪子の地金が分かって御覧よ。一度でも好いから、例の様に腹を立てて、伯母さんの頭を張る様に、丈夫の頭を張りでもすれば、アノ真面目な男が、何の様にするだろう。本当に面白いなア。御覧よ先ア、丈夫(じょうふ)が熱心に姉さんの云う事を聞いて居る事。私は受け合って置く。此の次に来る時は、丈夫(じょうふ)が必ず自分の母を連れて来て、輪子を見させ、それからその次には屹度(きっと)縁談を申し込むからさ。」
と。

 人の生涯の大事を慰み半分に評議するとは、たとえ深い悪気は無いにしても、確かに、悪気の無い範囲に於いての悪人である。
 併(しか)し、丈夫が若し此の密々(ひそひそ)話を聞けば、幾等か輪子の性質に対し、疑いを起こすかも知れないけれど、勿論聞こえないほど離れて居るから、丈夫は唯だ輪子の言葉を一々真に受けるのみである。実に危ない訳では無いか。

 この様な所へ博士も来た。その後へ続いて、逗留中と云う名義で四年越し此の家の厄介に成って居る二人の伯母御も来た。此の二人は別に此の話に大した関係の無い人だから、仮に一川、二山両夫人と名付けて置こう。この様にして愈々(いよいよ)晩餐には取り掛かった。

 全体丈夫は晩餐のテーブルを賑やかにする男では無いけれど、博士の家の晩餐には適当な客と云って好い。第一博(ひろ)く書物を読んで居る。第二には余り俗向きの話しをしない。是れに取り分け博士の著書なども読んで居るのだから、博士との話が持てる。その間には輪子から、話の種の尽きない様に仕向けられる。

 果たして博士は殊の外上機嫌になり、是非とも此の好天気に乗じ、自分と共に天文台へ上り、宇宙の極意を観察しようと、切に先刻の案内を繰り返し、無論丈夫を承諾させた。
 実に自分の家を開けた事の無い丈夫が、浮々(うかうか)一夜を此の家に留まる事に成ったのは、抑(そもそ)も誰の力だろう。博士一人の力では決して無い。

 輪子は兎に角、丈夫が明日まで此の家に留まる事と為ったのを大喜びでは有るが、直ぐに父の手で天文台へ引き攫(さら)って行かれては大変なので、その前に是非とも応接室でお茶を入れるからと云い、その上で天文台に上れと云って、是も丈夫を承諾させた。

 此の承諾を守って、丈夫は晩餐が終わると直ぐに応接室に行った。ここには一川二山の両夫人が居て、何しても懸賞の外套に有り附かなければ成らないと云う決心で、輪子の居ない間に輪子の事を褒める。輪子も褒めて呉れる丈の時間を与える為と見え、茶の用意にと立って、しばらくの間ここへ出て来ない。

 両夫人は殆ど一口代わりに、輪子が家を治めるのに綿密な事から、正直一方で少しも曲がった事が嫌いな事、今まで幾人から縁談を受けても、相手が丈夫の様に真面目な人で無いことから皆断った事。普段大抵の紳士に対し、仲々打ち解けて話はしないが、何う云う者か貴方には久しい友達の様ですなどの事を、凡そ思い附ける丈の褒め言葉で話した。

 それは自分達が酸い甘いを嘗め尽くした丈。そう、陽(うわべ)では無く極めて尤もらしく並べ、更に世間の様子などは知らない正直一方の丈夫を、可哀そうに何うやらこうやら煙に捲いてしまった。

 やがて輪子も来、茶も済み、その後で輪子が音楽台に上り、何やら自分の得意の一曲を奏して聞かせ、そうしてヤッと丈夫を離したので、彼は是から天文台に上ったが、余り天体の美も目には着かず、翌日になって、我が家へ帰る時には、果たして波太郎の予言の通り、此の次には阿母(おっか)さんを連れて是非来よう。今の世に輪子の様な淑女が有ると知れば、阿母さんが何れほど喜ぶかも知れないと、道々独りで呟く事にはなった。



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