巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人の妻(扶桑堂書店 発行より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

バアサ・エム・クレイ女史の「女のあやまち」の訳です。

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   人の妻  バアサ・エム・クレイ女史 作  黒岩涙香 訳
         
    (序篇)八 「妙な志願」

 家に帰って丈夫(じょうぶ)が、母に向かい輪子を褒めた事は非常である。殆ど幾日の間、輪子の噂で持ち切りで居た。
 母は果たしてその様な女かしらと思い、或時次男に問うて見た。所が次男の云う所は大違いである。短気で我儘(まま)で、人を騙(だま)す事が上手で、上部が利口で心が馬鹿で、少しも取得は無いと迄云った。

 母御は何方を信じて好いか分からない。兎に角自分で逢って直々に見届け度いと思った。実は丈夫の勢いが今にも縁談を申し込みそうに見えるから、母の役として見届けなければ済まないのだ。
 こう思って居るうちに、伴野と大津の両家へ様々の事が湧いて起きた。

 その第一は次男が、言葉通りに軍職を人に売り、その金を旅費として印度へ出稼ぎに行ったのだ。彼は他日必ず身を立てて帰って来て、博士の末の娘鈴子を、自分の妻にすると云い、出発前に鈴子に逢ってその意を伝えたが、鈴子は妙な志願で、是からロンドンへ出て医学を修行し、立派な女医者に為るのだから、生涯良人は持たないと云って断った。多分鈴子が女医者に成り度いと云うのは、学問研究に熱心な、父博士の気質を受けたのだろう。

 併し、
 「汝を愛せぬ。」
と云って断られるより、此方が未だ見込みが有るのだから、何にせよ自分の帰国まで、良人を持たずに居て呉れさえすれば好いのだ、と次男は気を軽く出発した。

 第二は兄丈夫が、大いに財産を興す積りで、政府の嘱託事業を引き受け、准管理となって、是れはロシアへ出張する事になった。
 第三は博士の子、波太郎が勘当同様になり、鳥も通わぬ南洋の豪州へ追い遣られた。

 第四は伴野荘を到頭債主へ引き渡し、一族はプルードの小さい隠居所へ蟄居した。併し之は先祖代々の代言人が殊の外残念がり、債主に堅い契約を結ばせて、此の屋敷の収入の中から月々幾分を伴野夫人の方へ払い戻させる事にした。

 是で、蟄居して生計(くらし)方を約(つま)しくすれば、年の暮れまでに何うにか博士へ還す金だけは出来る勘定だ。
 さてもこの様に隠居所へ蟄居した為、大津博士の家と近所同士とは為った。母御は早速自分の従妹及び丈夫と共に、大津家へ尋ねて行った。勿論丈夫のロシア行きは、もう近々のうちと分かって居るから、輪子の方では、是非とも出発前に縁談を申し込ませ度いと熱心で、一方ならず待遇(もてな)した。

 殆ど輪子の有る丈の腕を振るった。母御の方も丈夫が先ず准官吏になり、妻を支える丈の収入は出来ようから、輪子が真実丈夫の噂する様な女なら、嫁に貰って遣り度いとの念が、勿論母として無くては成らない、それが為に充分注意して輪子を見た。

 流石母御は辛苦し抜いた人だけに、輪子の上部とその地金とを良く見抜き、之を嫁にすれば丈夫の生涯の不幸だと見抜いて帰った。是からは「近所」と云う口実を以て、輪子の方から度々母御の機嫌を取りに来るが、来る度に母御の目には輪子の贋物(にせもの)と云う所が見える。母御は全く捨てて置かれない事に思い、或る日丈夫に向かい、若しや輪子を妻にする気では無いかと問うた。

 丈夫は少し顔を赤くし、
 「ハイ、ロシアに立つ前に、縁談だけ申し込んで置き、帰国の後に婚礼しようかと思いましたが、少し事情が有って当分縁談が申し込めない事に成りました。」

 母御は思ったよりも丈夫の心が切迫して居るのに驚き、ここで充分に丈夫の心を、翻えさせなければ成らないとは思ったが、
 「少し事情が有って」
と云うその事情が気に掛かり、
 「エ、事情とは何の様な事柄だエ。」
と聞き返した。

 丈夫「輪子が、父から五萬ポンドの婚資を得て居るから、誰の妻にでも成れば、所夫の家へその五萬ポンドを持参すると、自分の口から私へ、外の話の序(ついで)にだけれど話しました。この様な婚資が有ると知って、縁談を申し込む事は私には出来ません。ハイ今の私には出来ません。自分にその倍以上の財産でも出来た後なら兎も角、その前では金銭の為に縁談を申し込むにも当たります。」

 此の一語は丈夫の日頃の気質を現わして余りあるのだ。母御はここぞと思い、
 「私は是を機会(しお)に、どうしても其方(そなた)に言い聞かせ度い事が有る。輪子は決して其方の思う様な賢女では無いよ。其方に向かってその様な婚資の事を云う事からして、心の浅墓な事は分かって居るでは無いか。彼女を妻にすれば必ず生涯不幸の基だから、何うぞ思い切ってお呉れ。其方の事だから間違いは有るまいが、妻ばかりは、何うか私しに異存の無い女にしてお呉れ。」

 丈夫は日頃の真面目な顔を又一層真面目にして、
 「輪子が賢女で有るか無いかは、私には私丈の見る所が有りますから、貴女に同意する事は出来ませんが、兎に角私は、阿母(おっか)さんの賛成しない女を、妻にする様な男では有りません。阿母さんが賛成して下さる迄待って居ます。」

 母御「オオ良く云って呉れた。其方の様な母思いの息子は、今時に沢山は無い。シタが其方は輪子に向かい、後へ引く事の出来ない様な言葉など、洩らしては有るまいネ。」
 丈夫「ハイ、縁談を申し込み度いとは思いましたけれど、生涯の大事ゆえ篤(とく)と熟考中でした。熟考して定まらない中に、勿論約束らしい言葉を吐く筈は無く、他の婦人に交わると同様に交わって居ただけです。勿論輪子の方で私の心に縁談の気の有るか無いかを知る筈は有りません。」

 是は全くの事実である。丈夫は輪子に一方ならず心酔したにしても、冗談一つ云った事は無い。逢ったのも半年ほどの間に総計でたった四度である。でも外の男なら、話の序(ついで)にそれと無く女の気を引いて見るとか何とかして、我に縁談の心ある事を、女に仄めかして有るかも知れないが、丈夫に限ってその様な事は決して無い。

 母御「では其方が縁談を申し込まずに、此のまま外国へ行ったとしても、先方から悪く云われる所は無いネ。」
 丈夫「ハイそれは有りません。」
 母御「では何うか此の上は、深く交わらずにロシアへ立つ事にしてお呉れ。旅する中には広く女を見、人に接し、自然に又分別も変わるから。婚礼と云う事はその上で、イヤ帰国の後まで考えない様にしてお呉れ。」

 無理な注文では有るけれど、子を思う母の真情で有る。自分よりも母を重んずる丈夫の気質では、決して之に背く事は出来ない。
 「ハイ」と確かに言い切ったが、彼は果たして何の様な風に此の約束を守るだろう。



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