ikijigoku53
活地獄(いきじごく) (扶桑堂 発行より)(転載禁止)
ボア・ゴベイ 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
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活地獄(一名大金の争ひ) 黒岩涙香 訳
第五十三回 伊蘇普に約束する馬平侯爵
栗山角三の娘澤子とその下僕(しもべ)杢助(もくすけ)は、何故に馬平侯爵の家の門前に佇立(たたずん)でいるのだろう。伊蘇普(いそふ)は耳を澄まして二人の話を聞くと、杢助は顔を顰(しか)めて制する声で、
「その様な事を為さっても駄目ですよ。」
と云う。澤子は少しも従う様子は無く、
「駄目でも好いから無言(だまっ)てお出で。私は明日までここに立って居てでも、此の中に入ります。」
僕「貴族の家へ知らない者が入り込めば叱られますからサ。」
澤「叱られたって構う者か。阿父(おとう)さんも何うにかして柳條さんを救いたいと仰ってお出でだから、私しとお前の力で馬平侯爵に頼み救い出して貰えば、お前は阿父さんから褒美が貰われるよ。」
扨(さ)ては此の女も、伊蘇普と同じく侯爵に訴えて、柳條を救おうとの目的であるか。
僕「ナニ、旦那が褒美など下されるものか。俺のする事に横合いから手を出すなと云うのが旦那の口癖です者。是が分かれば、私は直ぐに追い出されるかも知れません。初めから斯(こう)斯(こう)と有のままに仰って下されば、決して御伴して来る所では無いのです。
私は貴方に騙されました。是と云うのも、アノ棒田夫人の入れ智慧でしょう。女の浅墓な心からこうするのが好いだろうと貴方に話したと思われます。」
澤「その様な事は何うでも好いから、もう一度門番の所へ行き、取り次いで呉れと云ってお呉れ。」
僕「何度云っても無益です。」
と争う折しも、此の家に使われる下僕と見え、馬車小屋から一輌の馬車を引き出し、玄関の前に着けた。続いて内から出て来た老夫人は、誰あろう侯爵の母君である。今しも何所かへ出て行く為と見え、二人の侍婢(こしもと)に扶(たす)けられ、その馬車に乗ろうとする。澤子は今こそ好機会と思った様子で、突然杢助の手を振り払い、門の中に走り入り、馬車の辺に駆け寄ろうとするので、杢助は驚いて之を引き留めようと、
「コレ嬢様、お待ちなさい。」
と言って続いて走り入ろうとすると、門番は直ぐに出て来て、杢助を堰き止めた。事の様子を伺って居た、彼の伊蘇普も此の騒ぎに紛れ、門番の背後(後)ろを潜って庭に入り、誰も気が附かないうちに庭から亦も中庭まで進み込み、物影に隠れて居た。
馬車に乗ろうとして居た老夫人は、見も知らない女が走って来たのに打ち驚き、
「何者だ。何者だ。コレお前は何用あって。」
と鋭い言葉で叱り問うのも無理は無い。澤子は自ら小説中の女主人公となった気で、老夫人の前に立ち、
「貴方は馬平老夫人ではありませんか。」
と問う。此の大胆な言葉に老夫人は身を二三寸引き延ばして、充分な威儀を示し、
「馬平侯爵老夫人に何用あって。」
と問い返す。小説中の烈女を気取った澤子ではあるが、老夫人の冒し難い威儀に接して、宛もその心を奪われた様に、僅かに、
「ハイお願いが御座いまして。」
と綴るのみ。
夫「好し好し、願いは願いで好いが、何にしても昔の十字軍の時以来、血統の連綿と続いて居る侯爵家の老夫人に、こう端したなく近づかれる者ではない。」
澤「ハイ門番に取り次ぎを願いましても、聞き入れて呉れませぬ故。」
夫「それは取り継がない筈の事。アノ門前で騒いで居る無礼者は誰じゃ」
澤「アレは私の父の書記です。」
老夫人は見下げ果てたと云う顔で、
「フム書記、懲役から出て来た様な人相でー――コレ門番や、その者を外へ出してお仕舞い。」
云わなくても門番は既に杢助を推し出して居た。
老夫人は倩々(つくづく)と澤子の姿を眺め居たが、礼儀を知らない作法に似合わず、その初々しさに、却って一種の憐みを生じたので、忽(たちま)ち言葉を柔(和)らげて、
「願いとは何事じゃ。侯爵家の老夫人が、端たない少女から、この様な事を聞くものではないが、私は外の貴族の様に分からない事を云うのが嫌いじゃ。ジャンジャックルソー先生がエルメノンビルに住んで居た時分、米国人だと云って屡(しばしば)私の許へ来て、民約論などの話をされた。
それ故私は貴族ではあるが、人間平等と云う事を知って居るから、サアここでその願いを聞こう。」
と励ます積りの言葉ではあるが、前置きが大業(おおぎょう)だったので、澤子は答えるべき言葉を知らない。言おうとしても口籠るばかり。
「ササ何事じゃ。」
と再び言われて漸く口を開き、
「貴方様のお力で士官を一人お助けなさって。」
夫「士官を助けて呉とな。分かった分かった、きっとコルシカ脱島人(ナポレオンを賎しんで云う語)に使われた士官だろう。それが此の度国王の帰朝に就き、不敬の罪でも犯して牢に入れられた者と思われるが。」
澤「イエそうではありません。独逸士官と決闘した罪で。」
老夫人は急に乗り気になり、
「フム決闘でドイツ士官を殺した。それでは願いの次第も聞こう。私は独逸が大嫌いで―――その国のフレデリク大王も王と云う値打ちは無い。実は野心の強い兵卒じゃ、私の友人ボルテル先生とは親しくしていたが、私は大嫌いじゃ。その国の士官を殺した丈の罪なら助けて遣りましょう。
警視総監の穂内も、此の頃オトロント公爵に叙せられて、頻りに貴族社会に交際を求めて居るから、私が呼び附けて言付ければ、何うかなるだろうが、それより先に聞きたいのは、お前の助け度いと云う士官の事。名は何と云う。」
澤「柳條健児」
夫「成る程平民の名じゃ、お前は何故その男を助け度い。」
澤「ハイ婚礼を致します為に。」
物影に在る伊蘇普は此の返事を聞き、扨(さ)ては我が主人瀬浪嬢と同じく、是も柳條と婚礼する女であるかと怪しんだ。
夫「成る程、婚礼をするなら愛して居るのだな。愛して居るから助け度いとは、好い言い草じゃけれども、縁も縁由(ゆかり)もない此の私に頼んで来るのは何故じゃ。」
澤「貴方の御子息が、馬から落ち、大怪我をなされた時、馬車に乗せてお屋敷まで送り届けたのが、その柳條健児です。」
夫「ハハア息子を助けた呉れた人。それをお前が何うして知った。」
澤「ハイ父から聞きました。」
夫「それで父がお前を此の通り寄越したのじゃな。」
澤「イエ父には知らさず、私が抜けて参りましたのです。」
夫「フム抜けて来たか。平民の娘には有り相な事じゃ。平民の娘と脱島の手下と婚礼するのは似合はしい。その上息子の恩人とあって見れば猶更だ。息子も今は大方怪我も治り、その時の事を大抵は思い出したが、誰に助けられたか、そればかりは思い出さないと云って居るから、私が好い様に計らって遣る。」
と独り幾度か頷(うなず)いて老夫人はそのまま馬車に飛び乗って、澤子には挨拶もせず馬を急がせて、走(は)せ去った。
澤子は是れで我が思いも届いたと思ってか、続いて門を出て外に待って居る杢助の方へ走り去った。此の一部始終を見終わった彼の伊蘇普は、恰(あたか)も夢見る様な心地で、此の上如何にしたら好いだろうと、その思案も定まらなかったが、何時まで隠れて居ても仕方がないので、徐々(しずしず)と物影から出ると、此の時庭を掃除して居た下僕の者が、忽(たちま)ちその姿を見認め、大声上げて伊蘇普を叱り懲らしめる。
その声を怪しんでか、内から庭に向かっている一方の窓を開き、顔を突き出す人があった。是こそ当家の主人馬平侯爵である。頭にまだ繃帯を施しているが、一目見て瞳の尋常(ただ)ならないのが分かる。伊蘇普はここだと思ったので、拝がむばかりに手を合わせ、その顔を眺めると、侯爵は様子を疑がい、
「何か私に用でもあるのか。」
と問う。此方は嬉しさに雀躍し、帽子を脱ぎ両手を開いて窓の方に進み寄りつつ、
「ハイ中尉柳條健児を救い出して戴き度いと思いました。」
アア柳條健児の名は恋の敵として、深く侯爵の心に浸み入り、生涯忘れない所であるに違いない。侯爵は眉を顰(しか)め、
「ハテなお前は柳條の使いか。」
伊「イエ柳條が今牢に居るから、それでお救いを願うのです。」
侯爵「でもそれは手前の願いであろう。」
伊蘇普は何と答えたら好いだろうかと暫し考えた末、
「ハイ柳條と婚礼する令嬢の使いです。」
と答えたのは、当意即妙の積りに違いない。
侯爵は又ギクと驚き、
「令嬢とは上田瀬浪嬢か。」
伊「ハイ」
侯爵「では何だな、瀬浪嬢が此の馬平へ柳條健児を救って呉れと頼むのじゃな」
伊蘇普は、
「ハイそうです。」
と返事して侯爵の顔を見上げると、侯爵は何も云わないが、その眼中に極めて異様な光があるので、伊蘇普は思わずも一足退いた。
侯爵は良々(やや)あって、
「好し好し帰って嬢にそう云えよ。侯爵は確かに嬢の頼みを聞いた。三日の中に返事をすると。」
言葉と云い様子と云い、尋常(ただ)ならない様に思われるので、伊蘇普は低く首を垂れ、我が言った事が好かったのか悪かったのか、我目的が届いたのか届かないのか、それさえも知ることができずに、唯だ恐れてその所を退いて、門の外に出て去って行った。
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