巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ikijigoku62

活地獄(いきじごく)  (扶桑堂 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2018.7.1

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

 

   活地獄(一名大金の争ひ)    黒岩涙香 訳

   第六十二回 栄三の絶望
 
 遺言書を持ったまま門苫取(モンマルトル)の丘の下に埋められた彼のお梅は、穴の天井が頽(くず)れた為め、槇四郎、角三、その他の人々と共に、更に深く埋められ、今は到底掘り出されることが叶わない身とはなった。だから銀行頭取上田栄三も、之を天の裁判と断念(あきらめ)て帰り去ったが、情ある者誰が之が為に泣かない者があろうか。

 此の翌日午後三時頃の事であるが、栄三は唯独り己が居間と定めてある銀行の事務室に座し、腕を拱(こまね)いて思案に沈んだ。その顔色を見る時は殆ど別人かと疑われる。閃々(せんせん)として人を射た眼の光も、今は全く曇り果て、頬に現れた活発な血の色も何時の間に褪めてしまったか、宛も土の色を帯ぶ。

 昔の人は苦労の為め一夜にして頭髪全く白毛(しらが)となったと聞けど、栄三はそれにも増し、一夜の中に十年ほど老(ふ)けて見えた。それも無理は無い。今までは如何にかして銀行を盛り返そうと、その心を張詰めていたが、昨夜の一条よりして、その望みが全く絶え、此の上は唯破産を待つのみの不仕合(不幸)せとは為った。

 無理の上に無理を尽くして、ここまでは漕いで来たが、今月と云う今月は越すに越されない関所がある。晦日を限りに店の戸を閉じなければならない。己れ一身は乞食をするも苦しくはないが、荒い風にも当てずに、永の年月育て上げた瀬浪を、如何にしたら好いだろう。

 昨夜家に帰ってから唯嬢が事をのみ考え明かし、今もまだ嬢の事を案じて過ごしている。この様な苦労も、我が身がなせる罪の報いと思えば、恨みもせず咎めもせず従容(しょうよう)《ゆったりとして落ち着いて居る様子》として天の裁判に任せるばかりだが、だからと言って清浄な娘にまで、我が為めに苦労を掛けるのは、親の身として我慢が出来ようか。

 打ち案じ打ち嘆えた末え、漸くにして此の後の行く道を決めた。灰一握り残らぬまで我財産を振るい尽くして、ことごとく債主の手に渡し、その後で友人町川友介から少しばかりの旅費を借り、米国に引き移ろう。

 人既に五十と云う坂を過ぎて、再び財産を起こすのは、非常に難しいけれど、米国(アメリカ)はその国も新にして、仕事も多い所なので、骨身を砕いて稼ぐに於いては、嬢一人を安楽に暮らさせる事の叶わない筈はない。

 それに就けても気に成るのは柳條健児が事であるが、彼既に秘密党の一員である長谷川の自首に依り、その筋から秘密党と見做(みな)される時は、我が力で救う事は出来ない。それに引き替え、唯だ決闘の罪ならば遠からず放免されるだろう。その放免が若し今月の中にあれば、共々に米国に渡るとし、それが出来なければ、委細を町川に頼んで置き、我が後を追って来る事とするも好し。

 それ等は彼の随意に任せると、栄三の心は百端に走り、迷って取り留める方法もない。この様な中にも、唯だ一つ安心なのは、明日馬平侯爵に返すべき大金である。此の金を返し終われば、銀行は翌日から営業すべき資本を失うなうが、それは固より覚悟の前。唯だ我が平生より憎しと思う貴族の一人に、辱められないのが攻めてもの幸いである。

 ハブル港の同業に返すべき筈の金を、同業には来る二十五日までその期限を延べて貰らって、会計局に積み立ててある。明日侯爵が来たら彼の生白い顔に、その金を叩き附け、

 「平民とて侮(あなど)る勿れ、平民は正直なり。我が財産を潰(つぶ)しても、借りた金は期限を違えない。金を以って情なき女を妻にしようとする様な、汚らわしい心の貴族とは大違いである。」
と充分に罵(ののし)ってやると、一人呟(つぶや)いて頷首(うなず)くと、顔に非常に沈んだ笑みが浮かんだ。

 この様な折しも、入口の戸を突然(だしぬけ)に押し開いて顔ばかり突き出し、恐る恐る主人の顔を眺めるのは、此の銀行の会計役である。栄三ははたと睨んで、
 「何だ、何用だ。」
と厳しく問う。

 會「ハイ払い出しの事で一寸と。」
 栄「ナニ払い出し。」
 會「ハイ、ハブル港の同業へ、先刻十三万五千法(フラン)を払い渡しましたので。その事をお知らせに。」

 早や同業に払ったと聞いて、栄三は非常に青い顔を白くして打ち驚いた。此の金は是れぞ是れ、明日馬平侯爵の顔に叩き附けようと、今しも自ら慰めた金なのに、その心を知らずして同業に払ったとは何事ぞ。栄三は火っと怒ると共に、我知らず、
 「太い奴だ。」
と叱り声を発した。

 会計は何時にない栄三の剣幕に、返すべき言葉も知らない。栄三は自らが言葉の荒々しさに驚いて、忽ちその声を柔(和)らげつ、
 「ハブル港の同業へは二十五日まで待って呉れと手紙を遣ったが、それだのに今日受け取りに来たとは合点が行かぬ。」

 會「イヤ先刻その手紙の返事が来て、至急の入用ゆえ待つ事が出来ないと有りました。この返事をお目に掛けようと思いましたが、生憎貴方がご不在で、それに、
 「払い出しを見合わせ。」
と云う御指図もありませんでしたから。」
と最もな弁解に栄三も会計の過ちでは無くして、却って己の手落ちである事に気付き、苦い声で、

 「好し好し」
と言って会計を退けた。その後に栄三は自ら失望の声を制し兼ね、 
 「エエ、是でもう運の尽きだ。仮令(たと)え閉店する迄も、恥知らずとは云われない様にしよう。他人に赤面しないようにしようと思い、今まで心を苦しめたのも水の泡だ。

 昨夜門苫取(モンマルトル)の丘の下で、遺言書は取り出せないと悟った時、是が天の罰だと思い、町川にも爾(そう)云ったが、アレは未だ罰ではなく、誠の罰は是から此の身に降り下るのだ。エエ、是から。」
と両の手を握り詰め、歯を食ひ〆て涙に光る両眼を、裂けるばかりに見開いた心の中は、如何なだろう。

 国王を屠(ふぉふ)り、外人を攘(はらわ)んと誓った秘密党大首領の、一世の苦しみを思い遣るのさえ勿々(なかなか)である。《簡単では無い》

 良(やや)あって栄三はその目を閉じ、その手を弛めて後ろの椅子に摚と身を投げたのは、失望極まって絶息したかと疑われる。だが彼れは絶息したのでは無い。まだ息は通って居る。虫の息で良(やや)久しく自分の心を押し鎮める様子であったが、やがて思案が定まったのか、

 「好し」
と一言決然たる声を発し、非常に静かに起き上がったが、その顔色は全く変わり、活きている人とは思われない。彼は実に死を決したのだ。自殺する外、明日の辱しめを逃れるべき道なしと決心したのだ。嗚呼自殺ー。

次(第六十三回)へ

a:357 t:2 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花