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黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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     決闘の果   ボアゴベ作  涙香小史 訳述
         

       第十回 身震いする大谷

 さて大谷は重荷を背負った心地で、彼の口豆な夫人の部屋を出て、森山嬢の居間へと上って行った。居間は前から知って居る通り三階の面に在る。入口の戸を斜めに開いて置いて、人が窺(うかが)い見るのに任せてあるので、先ず戸の外から様子を見ると、嬢は窓の際に居る。

 半ば身を伸ばして、力も無く絹張りの椅子に身を投げ、稍々(やや)仰向けに打ち凭(もた)れながら、醒めて居る様な眠って居る様な様子である。日頃見開いた目を今は閉じもせず開きもせず、其の美しさは言葉に表しようが無い。

 アア是眠らずして桑柳の事を夢みつつ有る者かと、大谷はこの様に思ったが、嬢の夢路に通う人は、果たして桑柳其人であるか、将(はた)又た大谷自身であるか、軽々に判じる事は難かしい。

 大谷は入って行こうかどうしようかと迷い、引き返そうかと身を動かすと、其の音が嬢にの耳に入ったのか、嬢は忽(たちま)ち夢を破り、立ち上がって此方に来た。
 「オヤ貴方ですか。貴方一人ですか。分かりました。桑柳は死にましたネ。」
     
 大谷は非常な悲しみの色を帯びて、
  「ハイ死にました。戦場に死する勇士と同じく、潔く死にました。」
 嬢「私は多分死んだ事と思って居ました。」
 大「貴方は窓から私の来るのを見て、爾(そう)とお察しなすったので有りましょう。」

 嬢「イエ、一昨日、桑柳が狂気の様に成って参りましたが、先刻又私は急に胸が痛み、況(ま)して乳の当たりを射貫かれた様な心持がしましたゆえ、之が世に言う前兆とやらでは無いかと思って居ました。」

 大「今と為っては致し方も有りませんが、死ぬ時まで貴女の事を言って居ました。私の膝の上で其の息を引き取る時に、何うか直々に森山嬢の許へ行き、此事を知らせて呉れと私に頼みました。」
 嬢「ハイそれは私から頼んで置いたのです。外の人では了(い)けないから必ず貴方と。」

  貴方の二字に殊更ら力を入れた様に聞こえたので、大谷は我知らず驚いたけれど、嬢は更に身を切る様な切なる声で、
  「貴方は定めし私が涙一滴流さないのを見て、底意地の悪い女と思(おぼ)し召しで有りましょうが、それは又私の心を御存知が無いのです。ハイ私も二十歳に足らない女ですので、悲しい事は充分に悲しみますが、私には涙が有りません。」

 大谷は此の異様な言葉に益々驚き、何と答えて好いか分からず、唯、
 「ハイ、昔の人も真の悲しみには涙も無く、言葉も無しと言って居ります。」
と言って、僅かに我が当惑を隠すのみ。

 「取分けて又、此の度の決闘も、元はと言えば私から起こった事ですので、私は悲しみますけれども。」
と言い掛けるのを大谷は堰き止めて、
 「オヤ、それでは全く貴女の為に出た決闘ですか。」

 嬢「ハイきっと桑柳からお聞きでしょうが、私は若し桑柳の身に間違いでも有っては為らないと思い、世間の評(うわさ)は聞き捨てにする様にと此の決闘を制(とど)めましたけれど、其の甲斐も無く、此の様な事に成りました。

 若し決闘しなければ済まないと言う訳が有って決闘するなら、それは仕方も有りませんが、この度の事などは、唯本多満麿が人の前で私と桑柳の事に就いて、取るにも足らない噂をしたのが始まりで。」

 大「イヤ仮令(たとえ)取るに足らない事柄でも、紳士の意地として、聞捨てに成らない場合も在ります。尤も本多が何の様な事を言ったかは知りませんけれど。」

 嬢「イエ唯是だけの事です。『桑柳は森山嬢を妻に貰うと言い出したけれど、此の婚礼は末始終、浪風なしには治まるまい。取分け嬢は唯だ財産に目が眩(く)らみ、其の婚礼を承知したのだから、終には両方とも馬鹿を見るだろう。』と他人に向かって言ったそうです。其れも丁度私の伯母福田老夫人の夜会の席で、老夫人も桑柳も其の後ろに居て聞いたと言います。」

 大「成る程そう言われては聞捨てに成りません。私にしろ決闘します。」
 嬢「でも貴方、本多が之を言うには外に仔細がが有るのです。昨年頃私の許へも度々来て、母に私を呉れろとか言う相談も有ったと聞きましたが、其時私は断然(きっぱり)と断りました。それを遺恨に左様な事を言うのですから、紳士とも言うべき者が決闘の相手とするには足りない人物です。

 其の者の言う事を気に留めて、彼是言うのは自分の身を汚すも同様ですから、私はそのことを桑柳に話して、何うか決闘は止めて呉れと言いました。所が桑柳は私の名前は出さないで、外に口実を求めてするとか言いまして。」

 大「フムそれは実に惜しい事です。若し私が前以て左様な訳を耳に入れたら、私が充分本多を懲らして遣り、桑柳に決闘などさせませんでした者を。」
 嬢「私もそう思ったから、及ぶだけ止めたのですけれども。」
と言い切って暫(しば)し躊躇する様子なので、
 大「けれど何う致しました。」
 嬢「ハイ、けれども桑柳は其の前から死ぬ決心を起しました。」

 大谷は此の一言に愕然として、
 「エ、死ぬ決心を、ナニ其の様な筈は有りません。貴女を愛し、貴女にも愛せられて居る桑柳が、若し嬉しさの余り気でも違えば知らぬ事ですが、左も無くば、---取分けて貴女は婚礼の約束まで成さったでは有りませんか。」

 嬢「ハイ約束はしましたけれど、桑柳はそれだけでは承知せず、私に出来ない様な難題を望むのです。其の難題が出来ないからと言って終に失望して、死ぬ気に成ったのです。」
 大「ヘエ貴方に愛せられながら、まだその上の難題とは全体何(ど)の様なことですか。」

 嬢「ナニ其上の難題では有りません。唯私に愛せられたいと言うのです。ハイ私は未だ桑柳を愛しません。」
 アア桑柳と婚約まで為した身が、桑柳を愛せずとは如何なる心なのか知らないけれど、此の時又大谷の耳には、桑柳の死に際の言葉、

 「嬢は君を愛して居る。」
との声が歴々と聞こえる様に思われ、更には彼の手帳の日記に、「今日余は嬢の心の奥を見破ってしまった。」
などと記した事まで思い出され、大谷は身震いするのを覚えた。

 素(もと)より嬉しさの身震いでは無い、又恐ろしさの身震いでも無い。アア何の身震いなのだろうか。
 大谷自らも知らないのだ。



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