巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

kettounohate36

決闘の果(はて)(三友社 発行より)(転載禁止)

ボア・ゴベイ 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

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    決闘の果   ボア・ゴベイ 作  涙香小史 訳述
         

      第三十六回 顔に鞭の痕

 倉場嬢を計略に掛けて、象牙の机から遺言状を偸(ぬす)み去った怪しい紳士が、果たして本多満麿であるとすれば、今まで小林の推量した様に、本多と森山嬢がその実一つ穴の老狸(むじな)である事は争そえ無い。だから小林は図らずも倉場嬢に逢い、嬢が彼の紳士の行く先を突き留めたと言うのを聞き、

 「何うして突き留めた。何所で逢った。」
と迫き込んで問い掛ける。大谷も此の様子を見て、さては此れが小林の言う倉場嬢で、その突き留めたと言うのは、本多の事であるかと、早くも事情を覚ったので、唯耳を澄まして打ち聞くばかり。

 嬢「実はネ、彼の机の秘密箱に、銀行券か何か入って居たのに違い有りませんから、何うにかしてアノ紳士を探し度いと思いまして、占いの所へ行ったのですよ。町外れで二里ほど有るけれど、片道だけ馬車に乗って行きました。スルと占いは、「此の人に逢いたい逢いたい」と思っては急には逢えない。

 思い切ってもう逢うには及ばないと断念(あきら)めれば却って早く逢う事が出来ると言うのです。それから又逢ったにしても、余り此方(こちら)から引き留める様にしては、向こうで逃げるから、知らない顔をして居れば却って、向こうから慕って来るとこう言うのです。

 本当に占いの言う事は恐ろしい程当たりますよ。逢い度いと思っては、逢う事が出来ないと言うのですから、私はもう断念(あきら)めて、口の中で逢い度く無い、何うか逢いません様にと祈りながら帰って来ますと何うでしょう。道でその人に逢いました。
 全く占いの言う通りです。逢い度く無いと祈ったから、それで逢う事が出来たのです。イエ全くそうに違い有りません。」
と熱心に主張するので、小林ハ可笑しさを我慢して真面目になり、

 「そうさ、占いの言う事は馬鹿には出来ないのサ。それから何した。」
 嬢「それから矢張り占いの指図の通り、此方(こちら)から声など掛けてはいけないと思い、私は顔も見せない様にして、横手に在る小間物店を冷やかすと見せ掛けて、それと無く伺って居ますと馬車のままで横町へ廻りました。」

 小「フムその紳士は馬車に乗って居たのか。」
 嬢「ハイ青塗りの立派な馬車に。」
 青塗りとは益々本多に疑いなし。小林は思はずも大谷と目を見合せた。嬢は更に言葉を継ぎ、

 「今思うと惜しい事をしましたが、占いの言う通り、何時までも私の方で知らない顔をしていれば、屹度(きっと)向こうから物を言い掛ける所で有ったのを、その時私は貴方に頼まれた事を思い出し、その行く先を突き留めて遣ろうと言う心を出したからいけません。向こうは到頭私の顔も見ずに行って仕舞いました。

 本当に占いの言う通りです。此方で行く先を突き留めようなどと、余り向こう事を気に掛け過ぎたから、向こうが気も附かずに行く様な事に成ったと言う者です。」

 小「オヤオヤ到頭行って仕舞った切りか。」
 嬢「イエ、まあ終(しま)いまでお聞きなさいよ。それから横町へ尾いて行くと、馬車は彼の門苫取(モンマルトル)の墓場の横手へ行きました。」
 小「オヤ墓場の横手とは奇妙だナア。」

 嬢「所がネ、墓場の横手に又狭い横町が有って、本当に狸の住む様な所です。紳士はここで馬車を降り、その狸横町の外れにタッタ一軒離れて在る、寂しい家へ入りました。私は不思議で成りませんから、近所の玩具屋(おもちゃや)の店に居る内儀(かみさん)が、大層な饒舌(おしゃべ)りで悉皆(すっかり)話してしまいました。

 こうなんです。その紳士は誰とも知れない貴婦人と忍び逢う為めに、その家を借りて有るので、下僕も何も居無いと言います。一週間に一度か二度、朝の十時頃に紳士が来ると、間も無く貴婦人が厚い覆面を掛けて遣って来て、二人は家の内に籠込(とじこも)り、二時間も経つと帰ってしまうと言うのです。」

 アア貴婦人とは誰なのだろう。森山嬢ではないだろうか。
 小「それは感心だ。好くその様に詳しい事を探り出した。」
 嬢「未だ大変な事が有るのです。初めに話しては惜しいと思いましたから、終いまで取って置きましたが、実はね、私がその貴婦人の姿を見たのです。」

 小「ヤヤ姿を見た。」
 嬢「ハイ見ました。その店で内儀(おかみ)と話をして居る間に、その貴婦人が遣って来て、前の家へ這入りました。」
 小「何様な姿をして居る。」
 嬢「顔は英国風の厚い覆面で少しも見えませんが、背は女にしては少し高い方で、スラリと痩せて、後ろ姿などは此の上も無い優しいのです。それに真っ黒な着物を着まして。」

 愈々(いよいよ)森山嬢の姿である。
 小「それからその女の出て来る所は見なかったか。」
 嬢「それは見ません。二時間も経たなければ出て来ないと言いますから、約束の通り貴方に話そうと思って立ち去りましたが、それから少し路寄りをして居ましたから、今まで掛かりました。今行けばその夫人はもう帰った後でしょう。」

 小「その外に何も聞かないか。」
 嬢「何も―ーーイヤ聞きました。その家の隣が丁度空き家に成っていて、玩具屋で差配の代理を務めて居ると云いました。」
 小「その様な事は聞くには及ばないが、若しや名前でも聞きはしなかったか。」
 嬢「名前はそうですね、唯持ち主の名前だけです。何でも福田老夫人と言いました。」

 空家の持ち主の名を聞いても仕方がないけれど、此の名には大小(二人)とも同じ様に驚いた。福田老夫人とは、森山嬢の伯母に当たる夫人である。是から更に様々の事を問うたが、別に大切な話も無かったので、小林は幾等かの金子を取り出して握らせながら、明日にも尋ねて行く事を約束して嬢に分れた。分かれてから大谷に向かい、

 「何うだ森山嬢に相違ないぜ。それに福田老夫人の持って居る家だとは、益々我々の疑いを確かめると言う者だ。」
 大「そうだ。実は福田夫人も矢張り嬢の謀(企)みを知って居ると見える。その証拠には、先に桑柳が殺された事なども、その日の中に知って居たのだもの。

 その日春村夫人が、仕立て屋で逢った時に、老夫人はその事を夫人に告げたと言うから。それに本多が、初め嬢と桑柳の事を謗(そし)ったのも、福田老夫人の夜会だから、之も前以て旨く仕組んで置いたのだ。又今考えて見ると、誰も知らせに行かない先に、もう桑柳の死んだ事を知り、僕が来るだろう三階の窓から覗いて居たよ。

 僕が登って行くと丁度窓の所に変な塩梅式に凭(もた)れ掛かり、光線の具合で自分の顔が最も綺麗に見える様に向いて居た。」
とこの様に語らう折しも、小林は又も前から知っている女優に逢ったので、大谷を先に遣り、是も我が取り扱う患者の一人なので暫し其の容態を問ひなどして分れたが、その間に大谷は早や容赦も無く二町ほど行き過ぎていた。

 之に追付こうと足を早めるうち、その町に在る郵便局の中から出て来た一人の美人があった。黒い服を着け今しも何か郵便局の局員と談話する為捲(まく)り上げたと見え、厚い覆面を半ば挙げて、未だ全くは卸ろしては居なかった。此の美人小林を見て非常に驚き、我が顔を見られ無い様にするかの様に、手早く覆面を搔き下ろして、逃げ去るばかりに横手へと反れて行った。

 此の美人は誰だろう。小林は眼早くも充分に其の顔を眺めたり。世話しいなかにも森山嬢である事を認める事が出来た。その上その顔には、額から頬に掛けて筋違いに赤い痕があった。疑う迄も無く鞭の革紐で投(なぐら)れた痕である。アア驚くべし、驚くべし。



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