黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

嬢一代 　　（明文館書店刊より）（転載禁止）

バアサ・エム・クレイ作　　黒岩涙香　翻案　　トシ　口語訳

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musumeitidai

01.　訳者の序

　いずれの世、いずれの時代にも、その時代第一の豪傑があるのと同じく、又その時代第一の美人がある。数多き人物の上に豪傑唯一人秀でると同じく、美人も又、数多き婦人の上に、唯一人抜きん出て社交界の大立者となり、あたかも豪傑が向かう所に敵なく城を抜き、諸侯を降すが如く、美人又到る所の諸人の賞（ほ）め仰ぐところとなり、唯その一点の秋波（ながしめ）の為には、貴公子も心酔って奴隷となり、一句の優しい言葉の為に政治家も地位を失い、豪商も財産を失うことを止めない。

　古（いにしえ）の戦国が総て豪傑に動かされた様に、今の社交界は実に美人になびかされ支配されている。美人の一度着（つけ）た衣服は直ちに満都の流行となり、美人の臨む宴会（パーティー）には貴族紳士我先に列席しようとし、列席してその美しき唇より、一言半句の挨拶を受けるのを名誉とし、その愛らしき眼に我が顔を知られないのは恥とする。この様な美人有りや無しや。これを英国に求めれば、憂鬱画家パーシーダントン氏の一女イリーン嬢こそ、実にその美人と言えるだろう。

　嬢が見る人も無い英国の片田舎に成長し、後に及んで一世を風靡するまでに至ったのは、あたかも豪傑ナポレオンが地中海の小島に生まれ、後欧州全土を蓆（むしろ）の如く捲き来るに至ったのにも比べられる。昔東洋に在りしと聞く太閤秀吉が、名も無き尾張の中村とやらに生まれ、日本を狭しとするほどに勢いを得たのと同じようなことだ。

　しかし豪傑といえども、その終わりは好く終わらないことが多く、ナポレオンでさえ島流しに会ったのだといえば、彼も一時、これも一時、嬢といえども、その一代に輝き渡る時あると同じく、又怨恨悲痛、身の置き所無きまでに沈み込むこと無かっただろうか。
　美人の薄命とは誰が言った言葉だか知らないが、美人の生涯には、醜婦の生涯よりなお辛い事が多いのは、道理がどうのこうの言っていられない浮世の実態なのだ。

　それにしても生涯笑顔を描いた事が無いとまでに評される大憂鬱の画家に、どうしてこの様な晴れやかなる美人が生まれたのだろう。今より数年前英国の王国美術館（ローヤル・アカデミー）に掛け列ねた画額の中に、天に紫雲がたなびいて、その間から非常に麗しい美人の顔が出て、人待ち顔に下界を眺め下した画が有ったのは、当時同館に行った人が今猶（なお）忘れる事が出来ないところに違いない。

　その画の下には唯だ、「待」という一字を題して有ったが、これぞ嬢の父ダントン氏の画いたもので、雲間の顔は早くに死んだ嬢の母ダントン夫人の似顔であるという。雲間の顔は何を待っているのだろう。何を感じてダントン氏がこの様な画を描いたのだろうか。氏の外に知る者は無く、いずれの批評家も唯古来の画家が思い付けない、最妙最高の詩境を写したものであると、賞（ほめ）立てるのみだったが、実はこれは嬢が行方知れずになった時で、もし嬢がこの画を見れば、その父が、死んだ母と共に嬢を気づかい、家で只管（ひたすら）待って居るのを知り、父の許に帰ろうと思うに違いないと思い、ただ子を愛する一心より描いた謎だったとの事だ。

　しかしながらこの謎画は、ついに嬢の目にも触れなければ、又何人もこの謎は解くことが出来なかった。もっとも当時はまだ嬢が社交界の大立者と世に立てられる前で、何人もダントン氏にこの様な一女（むすめ）の有ることさえ思いも寄らなかった時だったからだ。

　イリーン嬢とは、嬢がまだ世に出ない昔の名である。嬢、今は早や嬢ではない。苗字を名乗る夫人であるが、夫人にして終わるか、美人ということで終わるか、その果の果は、笑みか涙か、非常なる美人には非常なる経歴が有るに違いない。

　嬢がまだ行方の分からなくなる以前、嬢がまだその片田舎の父の家に在りし頃の事から、今迄の嬢の身を書き出だそう。読む人、気長く終わりまで読み尽くして、この絶世の美人にどの様な経歴があるのかを知れ。豪傑の伝記とは又異なった味わいも無きにしも非（あら）ず。


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