巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume16

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.18

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              十六

 一歩もゆるささないイリーンの言葉に迫られて、春人(はるんど)は唯如何したら良いか分らず困るばかり。何と答えたら好いか分らない。イリーンは更に言葉を厳しくして、
 「イエ、貴方が何故に取り消しをそれ程嫌いなさるか、その訳を私に聞かされないと仰(おっしゃる)なら、無理に聞くには及びません。私は唯自分の名を保護し、自分の身を守るため、自分で取り消しを送るだけです。」
と言い切って、早やその所を立とうとする。

 春人は急いで引き留め、
 「コレ、どうしても思い留まる事は出来ないか。今その様な事をされては、私の迷惑は大変なのだが。」
 無根の事を取り消させることが迷惑とは、憐れむべき限りではあるが、イリーンは敢えてその訳を聞こうとはせず。
 「如何ほど御迷惑でも、自分の妻を社会の底へ埋めてしまい、妻の身分を失わせて、それで好いという様な訳は有りません。」
 「イヤ有る、それが有るから此の通り止めるのだ。此ればかりはどうか此の儘(まま)に捨て置いて」

 「ではどの様な訳です。」
 「イヤ、その訳は言うに言われない。」
 「言われない様な訳の為、思い留まる事は出来ません。」
 「では、言えば思い留まって呉れるか。」
 「ハイ、仰れば聞いた上で私が判断します。」
 春人は言いにそうに、暫(しばら)く首を垂れて考え入っていたが、やがて思い切った様子で、

 「言ってもお前が静かには良く聞かない。お前の耳には入れられない。」
 「イヤ、実はお前に済まない。私は穴へでも入りたいが、実はお前は!」
 「ハイ実は私は」
 「お前は実は私の妻ではないのだよ。」

 妻で無いの一言にイリーンは全く血色を失いて、紙よりも白くなり。
 「妻で無ければ、貴方の何です。」
と問い返す。其の声は一種の人間以外より聞こえて来る声かと疑われる。春人は唯面目なさそうに、前額の汗を拭いながら、
 「アア、妻のように思わせて置いたのは私が悪い。お前は妻でも何でも無い。」

 イリーンは未だ十分には理解できないように、
 「婚礼した者が妻では無いとは。」
 「イヤ、婚礼はしていない。アレは唯お前を安心させるために婚礼の真似事をしただけだ。」
 「真似事でも、長老、長老まで立ち会ったからその儀式は同じ事。」

 「イヤ、長老ではない。アレは唯の人で、私の友達、馬渕春助というものだ。長老で無い。長老で無い者を長老と言い、婚礼で無いのに婚礼と言い、妻でもなんでもないものを今迄妻と思わせて置いたのは、お前を騙した様な者で、重々私の過ちだ、今更後悔してもどうにもなら無いから、此の通りだ。」

と言って、相手に顔を隠し、そのまま首を垂れた。イリーンは初めて言葉の意を呑み込む事が出来た様に、
 「エ、エ、妻で無い。それは本当ですか。誠ですか。」
と絶叫し、座っている椅子から飛び放れ、殆ど仰向けに倒れようとする様に、よろめいたが、又忽ち前に打ち伏し、
 「それではアノ長の年月私を欺いて、罪も無い者の身を汚し、心を盗み、家を捨てさせ、親を捨てさせ、エエこの様な人の気持ちを踏みにじる手荒な、恐ろしい振る舞いが又と有るだろうか。」

 魂が消えるばかりに泣き伏して泣き叫び、其の儘息も絶え入るかと疑われたが、ややあってその泣き声の中より、切々に聞こえる言葉は、
 「エエ、余りと言えば情けない。是が婚礼だ、是が儀式だと、何にも知らない少女を欺き、虫一つも殺しもしない清い生涯を誤らせて、是が神の有る世の中にある事か。妻と思うからこそ、夫と思うからこそ、それが今更妻で無い、夫で無い、神はこの様な悪人を、罪も無い私を」
と充分には聞き取れないが、言葉に余る恨みと悲しみは、ただその体に起こった波の様な物凄い起伏の痙攣から察せられる。

 春人も今は見兼ねた様に、
 「コレ、イリーン、その様に悲しむことは無い。私の愛が今もその時も、この後死ぬ時までも少しも変わらないから好いではないか。たとえ妻で無いとしても、生涯切るに切られぬ中、互いの愛は夫婦も同様。イヤ夫婦にも猶優る愛を以って、お前に生涯不自由は掛けない。これそう泣かずに機嫌を直して。」
と泣き伏す背を撫で擦るのに、イリーンは恨みに声も術無く、

 「オオ、あの恐ろしい言葉を神は何と聞き給うか。この様な汚らわしい振る舞いを愛情とは、エエ是が愛情か、邪険な、無惨な、鬼鬼しい偽りが、エエ悔しい、情けない、この様な人非人(ひとでなし)は又と世間に有ることではない。一日や二日で無く、幾月も幾年も、一緒に居る者を欺き、神まで欺いて妻で無いのを妻だと言い、どうして気が咎めずに居られただろう。人で無い、人で無い、悪魔だ、悪魔だ。」

 ただ叫ぶのみ、その顔を上げもしないので、春人は愈々(いよいよ)持て余した様に、又も言葉を和らげて。
 「コレ、イリーン、その様に言うものではない。私はお前が是ほど悲しもうとは思わなかった。成程、悪いことは悪いけれど、何も悪気でした事ではなく、ただ愛の為分別も無く、こうなったのだから、それを思えばお前が勘弁してくれて、遂には日影の身も辛抱し、楽しくこの世を送る事に成るだろうと思っていた。これ、泣くのでは無い。何もかも既に昔と思い直して、勘弁してくれ。」
と言いつつ抱き起こそうとすると、イリーンはこの言葉に又一入の腹立ちを加え、泣き声を止めて、起き上がり、

 「勘弁すると言って、是が勘弁の出来る様な一通りの罪だと思いますか。男が女に加える罪でこれほどの罪が有りますか。私のどの言葉、私のどの振る舞いから、貴女は是ほどの罪を私が勘弁するだろうと思いました。余り私を見下し過ぎるというものです。仮令(たと)え体は汚されても、此の罪を勘弁する程未だ心まで腐りません。生まれて今迄、貴方をこの様な人と知らず愛したのが、後にも先にもただ一つの私の過ち、この外に何の過ちも何の罪も無い女を、何でその様に軽々しく見て仕舞い、この様な罪を勘弁するだろうと思います。」

 責める言葉は剣より猶鋭く、流石の春人も殆どイリーンの顔を見る事が出来ない。


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