巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume19

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.21

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               十九

 呪う言葉を後に残し、イリーンは立ち去った。春人(はるんど)は首を上げて見回したが、イリーンの姿は見えない。唯あの言葉だけが耳に残っている。
 彼れ必ずこの仇を復(かえ)すと言い、仇を復(か)えす為に、残る生涯を費やすと言った。まさかに女の力で、我が身に復讐が出来得るとは思わないが、まだどことやら気に掛かり、心穏かで居ることはできなかった。

 その後を追い、連れて来て慰めようと思い、今しがたイリーンが出て去ったその戸を開き、次の間を見渡したが、その姿は無く、又次の間にも姿は無かった。彼は何処に去ったのだろう。去ると言っても、別に行き先の無い身、今にも自ら機嫌を直し、此処(ここ)に帰って来るだろうと思い、凡そ一時間ほども又元の部屋に帰り待っていたが、イリーンは帰って来なかった。

 益々不思議に思われるので、或いは寝間にでも入って未だ一人泣き鎮めて居るのではないかと、又立って寝間に行き、次には化粧の間にも入ったが、衣服その外少しも何時もと変わることなく、着替えなどして遠くへ出て行った跡も無い。更に書斎に入って見ると、白紙の真ん中に何やら、認(したた)めてテーブルの上に在る。取り上げて見ると、確かにイリーンの書いたもので、墨もまだ鮮やかに光っていて、書いて一時間と経って居ないものだ。その文句は唯の五文字だった。

 「血を見る敵(かたき)」
 唯短い一句ではあるが、何か物凄い意味がある様に思われた。血を見るまでは恨みを忘れない敵であると言う意味か、我れ、春人を刺し殺して血を見なければ、復讐の念を断念しないとの意か。いずれにしても穏かならない心にして、深い恨みをこの句のうちに含めていることは疑い無いので、春人は我にもあらず、ゾッと身震いするのを覚えたが、

 「ナニ、女などいう者は、一時の情に心眩(くら)み、泣く時は我を忘れて泣き、怒る時は前後も知らずに怒るけれど、その代わり又打ち解けるのも早いものだ。今に帰って来るだろう。」
と又この様に自ずから思い直し、出て行って下僕(しもべ)の居る所に行き、もしやイリーンを見なかったかと問うと、
 「イヤ、もう一時間も前に裏口から出て、川の方へお出でになりました。」

 川と聞いては、もしや身投げではないかと危ぶむ心も出たけれど、血を見る敵と名乗る程の恨みを以って身を投げる筈も無く、川と言っても橋があって、橋を越えれば何処までも行かれるので、又強いて自ら慰め、今に帰って来るに違いない。今に、今にと、言いながら日を暮らしていたが、終に帰らなかった。

 二日を経、三日を経て、更に何の音ずれも無かったので、春人は漸(ようや)く真面目に心配する事と為り、血を見る敵という言葉が、益々容易ならなく思われるに至ったが、今更何と言っても仕方がない事だった。唯一つ何より辛く感じられるのは、今迄この家の内を照らし、我が身の上を照らしていた、非常に美しいその顔を見ようと思っても、復(ま)た見ることが出来ない一事である。

 今まではイリーンの顔は、何時でも見られると思っていた。どれほどその顔が我が身を慰めていたことか計り知れない。我が身は何時もこの様に晴れやかで、この家は何時もこの様に楽しい所とばかり思っていたが、唯イリーンの笑顔が見えないだけで、この家は何となく火が消えた様で、我が一身は味の無いこと蝋(ろう)を噛むようだ。

 アア我が身はこれ程までにイリーンを愛して居たのか。イリーンはこれ程まで我が身に大切だったのかと、思うほど益々物足らない心地して、果ては食う物さえも味がしなかった。
 さては、さては、イリーンが願った通り、辛くとも、李羅嬢と破断して、イリーンを生涯の我が妻と定めることが我が身の幸いであるか。李羅嬢とは会わなくても我が身は何の苦痛とも思わないのに、イリーン無くてはこの後の永の年月をどうして送ったよいのだろうと、急に浮世の苦労を感じたが、是もまた、思ってもどうしようないことだ。

 いっそのことこの家を畳(たた)もうか。この家はイリーンのために借りたもの。彼が居なければ、家ばかり置いて何になるなど、一人考えは考えても、猶(なお)その心に、イヤイヤ、イリーンが何時帰ることがあるも知れない。帰れば直ちに本の様に、この家の主人となるのだから、兎に角も今一年は此の儘(まま)に、下女をも下男をも置いて残して置こうと、漸く決心し、是より一年ほど此の儘にして置いたが、終にイリーンは帰って来なかった。嗚呼イリーンは如何したのだろう。

 「血を見る敵」、如何(どの)ようにして血を見るのだろう。



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