巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.4

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               二

 イリーン嬢は拾った写真の顔ばかりを眺めて居たが、見れば見るほどその顔に気高く奥ゆかしき所あり。父の描(か)いた画(え)などに見る、世の美男子などと云える者とは非常に趣きを異にし、あちらは唯女の如く美しく、是は真実男らしく、戦場に出たならば千軍を叱咤して、武名を後に伝えるのはこの様な人に違いない。

 太平の世に在っては大政治家と仰がれ、社交界に入っては紳士の手本と崇められるのも又この様な人に違いないと、自ずから尊敬の念を生じ、今はなかなか捨てるに捨てられず、宛(あたか)も印度の偶像信者が、仏の姿でも拾った様に、推し戴かぬばかりにして、自分の胸に当て、更にしばらくの間その所を歩き回っていたが、そのうちに日は益々暮れて行くばかりなので、父や老祖母に気遣はせてはならないと気付き、その写真を持ったまま家に帰った。

 帰った後も写真の事ばかり気に掛かり、父や老祖母に告げようったが、何やら恥ずかしい気もせられ、いっそ明日又拾った所に行けば、落とした人が尋ねて来ることも有るかもしれない。その時返せばそれまでだと漸(ようや)く思いを定め、その夜は写真の姿を夢見ながら眠ったが、翌日は朝飯の終わると共に彼の岸沿いの樹の下に行き、何時間を過ごしても尋ねて来る人は無かったので、少し失望の思いで帰って来たが、猶気掛かりでしょうがないので午後になって再び行き、座し慣れた草の上に座し、その写真を取り出して又もやつくづくと打ち眺めると、写真の眼は心あって我が顔を見詰めるかと疑われ、その口は何やら我が身に囁やこうとしているようだった。

 それもこれも我が心から産み出だす妄想ではあるが、妄想ほど楽しいものは無く、果ては四辺(あたり)をも打ち忘れ唯我が身、我が心だけと為り、心に描いて来て心に眺め、心に問いて心に答え、
「アア、本当に二人と無い・・・」
など、知らず知らず打ち呟(つぶや)くようになったが、その声が嬢の唇より離れると同じ時に、嬢が背後のほうに当たり、パタリと足音が聞こえると、嬢は忽ちにその楽しい妄想の世界から我に返り、ハッと驚き顔を赤めて、我知らずその写真を衣嚢(かくし)に納めながら、誰だろうと振り向き見ると、恭しく脱いだ帽子を片手に持ち、何か物問いたそうに嬢の背後に立つ一人の紳士が居た。その顔こそ疑いもなく写真に写っているその気高き、その置くゆかしき、その男らしい顔なので、嬢は耳朶(みみたぶ)まで赤くした。

 きっとこの世には居ない昔の人の姿だろうと思っていたものが、今目の前に立ち現れ、我が身にお辞儀して、物までも言おうとするのは、意外と言うか極まりの悪い限りなので、嬢が赤らむも無理はない。紳士はきっと普通の田舎娘だろうと思い、物言い掛けたのだが、田舎娘ではなくて、一廉の令嬢だったので、これは失礼したと躊躇(ためら)う如き様子で、言おうとして直ぐには言わず、唯その短い間に有って嬢の心は忙しく戸惑いし、自分が彼の写真を眺めていた姿をこの人に見られたか、我が呟(つぶや)いた言葉が、この人の耳に入ったかと、益々恥ずかしさが込み上げ来るのみ。そのうちに紳士はいたわる如き様子で、

 「失礼ですが」
と言い掛け、少し後の句考えて、
 「外に問う人が居ませんので、失礼ながら貴方にお問い申します。」
と言い直し、更に又、
 「昨日の朝、狩に行く途中この辺で人を待ち合わせ、遺失(おとし)物を致しましたが、イヤ詰まらぬ写真入れの壊れたのですけれど」
と殆ど腫れ物に障るような用心で言って来た。

 嬢は消え入りたい心地でその顔を上げる事が出来ない。紳士は語を継ぎ、
 「昨夜帰りにこの辺を探しましたが見当たりません。もしや近辺の人でその様なものを拾ったなどと言う噂を、お聞ききには成りませんでしたか。」
と充分謙遜の意を込めて問うてきたが、嬢は答える所を知らず。勿論遺失(おとし)主に返えそうと言う親切で拾ったものなので、「ここに」と言って差し出すのは容易(たやす)い事だが、昨夜一宵その写真を持ち帰り、その写真と同じ室に眠ったばかりか、今つくづくと打ち眺めていた様を見られ、囁やいていた言葉を聞かれたかと思うと、その易(たやす)い事実が非常に難かしい。

 それも今ここに落ちていたと言うならば未だしもだが、衣嚢(かくし)の底から取り出だして、今迄肌身に附け居たのだと見て取られることは実に身を切られるより辛い。
 だからと言って、このままに済ますべきことでは無いので、アアなんとしよう。何と言おう。自ら迫(せ)め立てれば迫(せ)め立てるだけ、我が身の異様な振る舞いをこの人に見られるかと、益々我が身の不束(ふつつか)のみ加わって唯一言の返事さえ出て来ない。徒にモジモジする間に、紳士は返事の無いのを、「知らず」との返事だと気付いたか、

 「イヤ、詰まらぬ事でお騒がせ申しました。自分の写真ですから捨てた所が惜しくも無く、是くらいの事で貴方のお手を塞いでは、後々まで私の気が済みません。」
と作法に少しも欠けた所の無い充分な挨拶を述べ、紳士はそのまま立ち去った。今は無言で居らるべき時では無いと、嬢は必死の思いで、早や二足、三足立ち去った紳士の後から、  
 「イエ、もし」
と呼び留めた。



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