巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume20

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.22

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               二十

 話換わる。
 入っては一国の大臣となり、出ては一党の首領と仰がれ、社会の幸福、列国の安危、総てその一身に繋(つな)がり、威名赫々(かくかく)として一世に輝く者、是蘭(ゼランド)伯爵の様な人は復(また)稀である。

 伯が政治上に身を委ねる、ここに数十年、非常な財産と非常な威勢とを備えて、為す事一として意の様にならない事は無いのに、敢えて贅沢な楽しみに耽(ふけ)らず、宛(あたか)も小児の遊ぶような質素な楽しみを、無常の楽しみとし、その外は総て政治にのみに心を寄せ、する事為す事、政治のかけ引きにならないものは無い。

 伯の自ら或る人に語った言葉に、
 「余は時々自ら怪しむ事がある。余は何の為に自ら政治の事に忙しく、世の人の半分ほども安楽を得ず、身を労し心を労してのみ一世を終わろうとしているのか。
 アア余は自ら万世までも滅しない、一種不朽の文字を以って英国の歴史に是蘭(ゼランド)伯爵という者を書き記し、萬萬年の後までも是蘭(ゼランド)の名を忘れさせない為である。政治は余が名を書き記す文字であると言わせる事にある。」

 是ほどの心掛けであるならば、一刻も政治の事を忘れないのは実に当然の事とも言える。今はその望み大方達して、伯の一言一行は電報で世界各国に伝えられ、伯の写真は何れの家の座敷にも掛けられて尊敬されるまでに至っている。
 今しも伯は政庁より帰って来て、余念も無く調べ物に取り掛かって居たが、なにやら思い出した様に、椅子から離れて深く考えながら、部屋の中を一周し、やがて呼び鈴に手を掛けて押し鳴らし、ハイと応えて入って来る従者に向かい、

 「李羅子はもう出たのか。」
と問う。
 「ハイ、馬車の用意まで出来ていますが、未だお出掛けには成りません。今夜の夜会も嬢様の為に定めし賑わうことだろうと思われます。」
 「では出掛けに一寸俺の部屋に立ち寄る様言ってくれ。」

 従者は畏みて退いたが、五分間も経ったかと思う頃、絹服の音爽やかに入って来るのは、かってイリーンが春人と同じ馬車に相乗りしているのを見た彼の李羅子である。李羅子は父の前に立ち、恭しく、
 「日日のお忙しさに定めしお疲れと存じます。貴方(おとうさん)も今夜私と一緒にお出で下さるの。」
 「イヤ別に政治上に意味の無い夜会で、俺だけはもう断ってやったから、和女(そなた)一人で行くが好い。オオ大層服装が良く出来た。」
と殊(こと)の外満足の様子なのは、木石かと疑われる大政治家にも、子を思う心は又別だからだ。

 「又この様な色の服を是蘭(ゼランド)好みなど名を付けて、仕立て屋が広告するかも知れませんワ。」
 「そうされるだけ和女(そなた)の徳を増すという者、兎角人望が肝心だから。」
 「時にお呼びなさったのは、何か御用でございましょうか。」
 「イヤ、少し話したい事がある。まあお座り。」
 「イエ、座ると直ぐに着物の膝にしわが出来ますワ。斯(こ)うして伺いましょう。」
と言い、嬢は椅子の背に手を齎(もたら)せ、半ば其の身を低くしたけれど、充分に腰を下ろさない。

 伯爵は静かに考えながら、
 「以前から彼の西富春人(はるんど)と和女(そなた)の間に、親と親との取り結んだ、約束のある事は和女(そなた)も知って居るだろうが。」
 「ハイ」

 「ナニも親の威光を以って、無理にあの約束を守れとは言わない。言わないが和女(そなた)の心で守れると思うならば、もうそろそろ実行に取り掛かる時が来た。俺の目で目下の青年社会を見渡した所で、春人ほど容貌の立派な男は無い。彼ならば大事の息女(むすめ)の婿にしても聊(いささ)かも不足は無いと思う。殊に彼は政治家に必要な才知も備わり、度胸も充分有る様子で、彼ならばこの後の仕込み次第で、随分俺の政略を継ぐ事が出来るだろうと思うが、併し、何よりも先ず和女(そなた)の意見が大事と言うもの。和女(そなた)は彼を何と思う。昨年中は一緒の馬車で度々散歩にも出、又芝居などへも行ったから、大抵彼の気質も分かったろうが、彼ならば充分に夫に持っても好いと、そう思うか。」

 嬢は非常に人情、世情に通じた女ではあるが、少しくその頬を赤くして、
 「そんな事は未だ考えても見ませんが。」
 「それとも和女(そなた)の心に春人よりも猶(なお)好きな男でも見立ててあるのか。春人を止めてこの人を夫にしたいと言うようなーーー。」
 「何でその様な人を見立てましょう。」
 「好し、好し、外に春人より勝るという見立てが無ければ、彼と夫婦に成れないという筈は無いな。」

 伯は外交的談判の口調で、先ず一段の局を結び、更に百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進めて、
 「和女(そなた)の心で夫婦に成られるとして見れば、何もこの上猶予するには及ばないことだ。今夜きっと彼と夜会で一緒になるだろうから、和女(そなた)も良く俺の思惑を飲み込んで、成るべくその積りで仕向けるが好い。」

 嬢は笑顔となり、
 「仕向けるといって、どの様にするのか私は知りませんもの。」
 「イヤ、彼に、もう婚礼事を申し込んでも好い時分だと、斯(こ)う思わせるのサ。」
 「どうすれば、そう思います。」
 「どうすればと言って、この様な事が口で教えられるものではない。少し交際に成れた女は、良くその呼吸を知っている筈だ。」

 「でも私は知りませんもの。」
 「ナニ、彼ももう年頃で、この両三年、大抵、人情も知り尽くした筈だから、充分和女(そなた)の心を読む、何も斯(こ)うするああすると言って、大したことをするには及ばない。唯目付きだけで良い。唯言葉の言い様だけ、唯素振りだけで良いのだ。目付きにでも、言葉付きにでも、少し素振りの変わったところが見えれば、彼はもう直ぐに悟る。是だけの事が出来なければ、社交家とは言われない。ナニ、優しい事だ。」

 「私は貴方が常に難しいと仰る外交術とやらより、猶(なお)難しいと思いますワ」
 伯は機嫌良く打ち笑い、
 「ナニ、難しくは無い、今夜先ず試めしてご覧ん。そうすれば一週間と経たないうちに、春人から必ず婚礼を言い込んで来る事に成るから。」

 「その様な素振りをして、令嬢の身分に障(さわ)らなければ。」
 「ナニ、障るものか。外の人へは分からない様に、その人だけへ思う素振りを悟らせる事が出来なければ、真の令嬢とは言われない。目付きでも言葉付きでもそれは唯臨機応変だ。」
 嬢も又笑いながら、
 「この様な難しい用事を言い付かりましたのは、今夜が初めてです。」
と言い、更に又、
 「思う通りに出来無くとも、後でお叱りなさらない様に。」
とあどけ無く断りつつ、父の頬に小児の如く接吻して立ち去った。

 伯は
 「是も国家的経論策だ。必ず功を案するだろう。」
と呟(つぶや)いた。

※注 百尺竿頭(ひゃくしゃくかんとう)に一歩を進める・・・充分に説明を加えたうえに更に一歩進めて説明する。



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