巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume26

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.28

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               二十六

 公爵は、
 「美徳璃(ミドリ)、美徳璃(ミドリ)」
と自ら呼ぶ我が声の、我が唇頭(くちびる)を離れると共に、早や我が身が妄想に浮かされたのを知り、死んだ美徳璃(ミドリ)が茲(ここ)に徘徊する筈がないのを知った。しかしながら、その声は消す事ができず、佇立(たたず)んでいる夫人の耳に入ったか、婦人は怪しむ様に此方(こちら)に向いた。公爵はその顔を見て、これは美徳璃(ミドリ)ではないが、美徳璃(ミドリ)の上に幾倍も立ち優った美人で、愛らしいその顔に、何となく悲しみの色を留めるのは、一層美しさを深くするものだ。

 古宮を慕って悲しんでいた美徳璃(ミドリ)の面影に似ている様に思われる所がある。その態度、その風姿は広い欧州の各朝廷を経廻った公爵の目にすらも、今迄見た事の無い気高さで、実に天女が降来(こうらい)したかとも思はれるばかりなので、公爵は恍惚(うっとり)として眺め入ると、婦人もこの立派な人を何人かと怪しんでか、公爵の身を見詰めていた。公爵は漸(ようや)く我に返って、先ずその帽子を脱ぎ、

 「イヤ、失礼を致しました。貴方を美徳璃(ミドリ)などと呼び掛けて」
と粗忽(そこつ)を詫(わ)びると、婦人は此方(こちら)を指して、優(しとや)かに歩み寄り、
 「イイエ、私こそ失礼致しました。何人も入る事の出来ないこの表庭まで景色に見惚(みと)れて、ツイ、浮か浮かと入り込みまして。」
と言う。

 そもそもこの婦人は誰だろう。是こそ彼の西富春人(はるんど)の「血を見る敵」、イリーン嬢である。
 公爵はまだ合点が行かない様に、
 「貴方は何方(どなた)です。」
と非常に恭(うやうや)しく問うのは、昔初めてその妻美徳璃(ミドリ)に逢った時もこの様であったかと思われる。

 イリーン嬢は固(もと)より公爵が茲(ここ)に来た事を知らない。この立派な紳士が公爵であるとは猶更(なおさら)知らないが、共人を引き連れて入り慣れた場所に入る様に、非常に落ち着いて闊歩する様子を見て、尋常(ただ)の人ではないと思い、必ずこの屋敷に就(つ)いて何らかの力を持ち、この屋敷に入り込む者を咎めるだけの身分有る人と見たので、

 「ハイ、私は絵書ダントンの娘、イリーンと申す者です。」
 公爵は又驚き、
 「オヤ、そうですか。」
と言いながら手を差し伸べ、
 「紹介人の無い場合なので、自分で紹介しまするが、私は五田(いつた)公爵です。」
と名乗った。

 通例の少女であれば不意に公爵の名を聞いて、見苦しい程驚き慌(あわ)て、アタフた態度を失うはずなのに、イリーンは少しも騒がず、唯穏かにその首を垂れて、答礼の意を表したのは、家庭の仕付けが行き届いて、貴人に接する作法に充分慣れた者かと見られるので、公爵は益々感心し、

 「ダントン氏までは、私がここへ来る事を知らせて置きましたが、氏は貴方にその事を話しませんでしたか。」
 イリーンは微(かす)かなる笑みを浮かべ、
 「ハイ、父は唯美術の外は少しも浮世の話をせず、未だ貴方がお出での事さえ一言も私へは申しません。」
 「成程そうです。それだからこそ、その道の大家に成れたのです。」
と言い更に思い出した様に、

 「そうそう、先日ダントン氏は娘と一緒にこの地へ来ると私の許に言って来ましたが、その娘と言うのが貴女の事だったと見えますな。」
 「ハイ、私が唯父の一人娘です。」
 是だけで一通りの挨拶は済んだのだが、公爵はまだ去るのに忍びない様子で、
 「折角’せっかくここへいらっしても、きっと番人共が不行き届きで御不自由がちで有っただろうと思いますが、私が来ましたからは成るべくその様な事の無いように致させます。」

 「イエもう立派なお屋敷で父も喜んで居りますし、私もこの上ない保養を致しました。」
 「大抵この土地の名所古跡はご覧になりましたか。ローマという所は殊(こと)に古跡の多い所ですが。」
 「イエ、父は一日室の中へ座ったばかりで外へ出ませんので。私もお庭内の景色が見尽くされないほど有りますから、未だ外までは参りません。」

 「イヤ、私が来ましたから、ダントン氏及び貴女とご一緒にゆるゆる方々を見物しましょう。」
 以外に親切なる言葉を聞き、イリーンは唯我が親子が、この有力な公爵に嫌われないのを喜ぶばかり。この上は何の望みも、何の思案もない。公爵は又、何とやらイリーンを亡き妻美徳璃(ミドリ)の再来かと思はれる気がしてきて、イリーンと美徳璃(ミドリ)との間に一種の縁の結ばれる所があるのではないかと怪しみ、心の中にイリーンと美徳璃(ミドリ)とを別々に引き分けることが出来ず、

 「イヤ、ここでこうして貴女に逢ったのは何よりの幸いです。実は私が美徳璃(ミドリ)、美徳璃(ミドリ)と貴女を呼びましたが、きっと貴女はその声を聞いたでしょう。」
 「ハイ、何だか聞いた様に思いました。」
 「美徳璃(ミドリ)と言うのは、十数年前に亡くなった私の妻の名です。もう一昔の事ですが、私が初めて美徳璃(ミドリ)を見ました時、丁度今の貴女の様に、美徳璃(ミドリ)がこの庭の景色を眺めながら立っていました。久しぶりにここへ来て貴女の姿を見ましたから、フト美徳璃(ミドリ)では無いかと思い、我を忘れて声を掛けたのです。」

と言い打ち笑うのを、イリーンは早くも不孝な我が身に引き比べ、死して後までその夫に慕われる美徳璃(ミドリ)の様な女もあれば、生きて夫に欺かれ、夫に非ず、妻に非ず、恨み怨みんで生涯を復讐に費やそうとする我が身の様な者もある。同じ女にして何という違いだと、知らず知らず心に浮かび、涙を催おそうとするのを覚えたけれど、漸(ようや)くにして堰(せ)き留めた。


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