巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume31

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.2

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               三十一

 是蘭(ゼランド)伯爵の名を聞いて、我が身は宛(あたか)も深い毒霧に包まれた様に、呼吸(いき)さえもする事が出来なかったが、夫公爵はそれとも気付かず、説明の言葉を続け、
 「噂では聞いて居ようが、この是蘭(ゼランド)伯爵は当代第一の政治家で、一番大切にしなければならない客だ。私より年は二つほど上だけれど、一緒に学校を卒業し、妻に死なれたのも同じ年だ。私は二度目の妻に逢い、その悲しみは忘れたけけれど、伯爵は今以(も)って独身だが、その代わり娘がある。」

 娘とは李羅子の事だろうと、イリーンはその名を聞かないうちから、胸の波益々高く打つのを感じたが、果せるかな、公爵は、
 「娘は名を李羅(リラ)と言い、今では英国一の美人と言われているけれど、和女(そなた)が出れば顔色は無い。詰まり交際社会の大達者(おおだてもの)という看板が、この李羅子の身から和女(そなた)に移るのだ。友人の娘は自分の娘も同じこと。和女(そなた)が李羅子と睦まじくしてくれれば、私に何よりも喜ばしい。ところがこの李羅子は一昨年婚礼して、今は立派な夫が有る。」

 アア、愈々(いよいよ)西富の名を聞く事かと、イリーンは身も世も無い想いをしているのに、公爵は唯当代にときめく人々を説き聞かせて、イリーンを喜ばせようと思う一心なので、まだイリーンの顔色がどれ程変わったのかに気が付かない。
 「夫と言うのは、是も是蘭(ゼランド)伯爵の引き立てで追々政治界に名を知られる、子爵西富春人(ハルンド)だ。」

 イリーンは聞くのに耐えられず、
 「ウン」
と叫んで悶絶するばかりだったが、今叫ぶことがあっては、我が敵はその西富春人である事を公爵に悟られて、どの様な事に為るか分らないので、唯必死の思いで自らを制し、テーブルの下で手を握り堪(こらえ)て居ると、公爵は又言葉を継ぎ、

 「この一族三人は、客の中の客とも言うべき程だから、和女(そなた)が自分で接待をしなければ成らない。接待といっても別に難しい事は無い。総て和女(そなた)の臨機応変に任せるが、成るべく親しく交わって、打ち解けて話などするように。」
と言う。アア、如何(どう)して彼、春人と打ち解けられるだろう。唯彼に深い恨みを返すことだけの為に、この世に存(ながら)える程なのに。

 沸き返る程の想いを又漸く耐えようとしていると、この時初めて公爵は、イリーンの尋常(ただ)ならない顔色に心付き、
 「オヤ、和女(そなた)は如何(どう)かしたのか。」
 「イエ、如何も致しませんが。」
 「オオ、あんまり一室に閉籠もって居る所為(ため)で有ろう。気分の優れない時、このような話は悪い。少し休んで居るが好い。」
と言い、その室より退いた。

 後にイリーンは独り考えて見るに、名を聞いてさえ、我が総身が震え出す程なのに、彼をこの家の内に招き、彼と同じ室(部屋)に座し、彼と言葉も交える事は、とても我が力の及ぶ所では無い。復讐を仕遂げるためには、どうせ彼と顔を合わさなければならないことは勿論だけれど、我が身にまだ充分な復讐の工夫も無い中で、彼に逢うのは、遅れを取るのに極まっている。

 それも他人の家か或いは又人も見ず、我が夫も見ていない場所ならば兎も角、我が家に招き、諸人一様に持て成さなければならない場合に、彼がその中に交わって居ては、我が様子を隠すにも隠されず。逃げるにもその場所が無い。唯彼を招かない事にするのが一番だけれど、我が夫の親しい友達を、我が都合で招かない事にする道も無い。

 如何したら好いかと考えさえ纏(まとま)らないのに、この翌日は又この事の相談が始まり、公爵の言うには、この様な場合の接待は、成るべく夫人の自筆で認めるより良い方法は無いと言い、外の分は如何するにしても、伯爵、李羅子、春人の三名に送る分だけでも、自筆で認めなさい。殊(こと)に和女(そなた)の手蹟は今時に珍しい程見事なのでと、強いて勧めるので、是もまた辞退するわけにはゆかず、唯春人に公爵の新夫人が己が嘗(かっ)て辱めたイリーンとは悟られない様、手の風を変えて書き、辛くも我が役目を果す事が出来た。

 事ここまで押し寄せては、唯先方に何かの都合があって、この招きに応じ兼ねることと為るのを頼む外は無い。せめては春人だけでも、病気か何かの都合が有るようにと、只管心(ひたすら)に祈ったが、願い通りにその様な都合が起こる筈が無く、特に美人の評判の高い新公爵夫人が初めて交際場裏に打って出る披露ということなので、到る所に言い囃され、之に招かれないのを恥とするほどなので、翌日から続々到来する返事に、一通でさえも断りは無く、皆、

 「一方ならない誉れと存じ、何事を差し置いても参上します。」
などと記し、その中には春人からの分もしっかり有った。イリーンは今は之までと覚悟して、この上は我が心を練り固め、彼春人の前に出ても一歩も後れを取らない様、訓練する外は無いと、今更の様に、春人が我が身に加えた辱めの数々を我が心に呼び起こし、春人が現に我が前に立って居る様に想ってみて、彼を眼下に見下そうとするが、我が顔は赤らみ、我が体は震え、唯彼に見下される様な思いがするばかり。

 我が身は最早彼に弄(もてあそば)れたダントン氏のイリーンでは無い。英国女流の最上位を占める五田公爵夫人であるぞと、我が心を励ましたが、その甲斐は無い。憎むべき彼の力、今も猶我が身の上に及ぼし、我が力に勝っているのかと思うと、悔しくてどうしようも無いが、悔しながらも彼に敵せず、彼を罵(ののし)り、言い懲(こ)らして別れたその時の腹立たしさは、悉く我が胸に浮かんで来たけれど、腹立ちながらも仕方が無かった。十回、二十回、同じ努力を繰り返し、如何(どう)やら幾分かは彼に勝つ事が出来る様な気がして来たけれど、今真(まさ)に彼春人が我が前に立って居ると思うと、その心はまた鈍り、震えないようにしようとするが自ずから身が震えた。

 如何したら好いだろう、如何したら好いだろうと、唯心に焦るうち早くもその日となり、その刻となり、招いた客は続々と入って来た。我が身は接待室に引き出されて、親しくその人々を案内する事とは為った。案内しながらも今にも彼が来はしないかと思うと、忽(たちま)ち総身に寒気を感じる。我が身はこれ程までも心弱いのかと自ら叱り励ましたが、その励ます心からして、既に彼春人に飲み込まれた心地して、最早や逃げ隠れる外は無いかと思う折しも、嘗(かっ)て我を欺き我を嘲(あざけ)った彼の声、我が夫公爵の声と共に笑いながらに、廊下から我が方に聞こえて来る。

 一歩一歩近付いてくる。
 真にその身の置き所無しとは、イリーンのこの時の心であろう。


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