巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume39

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.10

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               三十九

 馬淵春介(まぶちはるすけ)への復讐は先ず是だけで充分ではあるが、どう見ても馬淵は唯西富春人(ハルンド)の手先に使われただけで、真の恨みは春人にある。馬淵を懲らしめても、春人に対する恨みは寸分も軽くなる訳ではないので、イリーンは何とかしてと、相も変わらず、復讐の思案にばかり執着しているうち、此の年も暮れ、翌年の春も過ぎ、ロンドン季節と唱えられる、好時節は尽き果て、都には住みにくい夏の央(なかば)とはなった。

 女王陛下は例に由ってスコットランドに幸(みゆき)し、貴族は各々その別荘に引き移り、別荘の無い人は思い思いに避暑の地に旅行する程なので、イリーンは夫公爵と共に、サクソン宮に退いたが、この様な中にもイリーンを英国第一の美人と崇(あが)めて、尋ね来る避暑の客は引きも切らず、殊(こと)に皇族の中にも、暫(しば)し逗留させてよなど言い込まれる方もあるので、公爵はそれらの人々を集めて、我が領内に銃猟会を催そうと言い、九月の初めに招待状を発したところ、唯是蘭(ゼランド)伯のみは、政治の用向きを帯て欧州大陸を旅行中とあって、この招きに応じなかったが、日頃遊猟の嗜(たしな)みのある貴紳達は何方も喜んで承諾し、彼の春人もその妻李羅子と共に、来る事となったので、イリーンの心に隠れる復讐の焔(ほのお)は、人知れずその胸を焦がすまでに燃えさかった。

 殊にこの招きに応じ、李羅子かイリーンに送った返事に、以下の文句があった。
 「夫春人は、暑さの余り激しい為からか、銃猟には耐えることが出来ないなどと何時に無い弱音を吐き、気の進まない様子でしたが、唯妾(わらわ)の心にサクソン宮を忘れる事が出来ないほど恋しき事が有りますので、どうしてもと説き勧め、愈々同行することと相なりました。この様に申しますと何やら夫の冷淡なのを披露するように聞こえるかも知れませんが、親しさの余り、御身には有りの儘を打明け申します。

 尤(もっと)も夫の気の勧まないのは唯僅(わず)かの間だけで、それも妻である妾(わらわ)の熱心さで贖(あが)ない、明日出発することに致しましたところですので、お許し被下度(くだされた)くお願い申し上げます。妾が何故にサクソン宮をこのように恋慕うかと申しますと、是は他人には話されない秘密ですが、御身にだけはお聞かせ申し上げます。実は妾は初めて春人と婚礼した時から妾の心には真に春人を愛すると言う情は無く、親の所在やその他の義理合で夫婦と為り、その後は唯交際など、彼れ是れの忙しさ為、愛の生ずる暇も有りませんでした。

 昨年サクソン宮に招かれて逗留するうち、初めて真に愛情というものが心に湧き、春人が如何ほど妾を愛するのか、又妾が如何ほど春人を愛しているかを知り、初めて夫婦として一刻も離れ難いのを覚えました。実にサクソン宮は妾に愛を教えた場所、春人が愛すべき人であること教えてくれた家で、妾に取っては何よりも懐かしく、その後は春人と妾の間は益々親しく、親しいに付け愈々サクソン宮の事を思い出しているところです。更に又ここに内々に御知らせ申すべき喜びと言うのは、天の恵みで妾に春人の胤を宿し、来年の四月には可愛いい一子を出産する筈となった事です。更なる上は女の身としてこの上の幸は之無く、御喜び下されるようお願い申し上げます。」
 云々。

 イリーンは読ん出来て、色を変え手を震わせてその書を置いた。此の後もし復讐の場合に臨み、我が心が鈍ろうとする事が有れば、この書の事を思い出せよ。我が家とするサクソン宮にて、彼春人が始めてその妻に愛せられ初めたとは、罰当たるべき彼の身に、その罰が当たらずに、却って幸が来たものである。天が彼を罰しなければ、私が必ず天に代わってその罰を行おう。彼の心に清き愛情が有り得ない事は今更疑う迄も無い。彼は実に愛も無いのに愛を装い、その妻をまで欺くのに等しい者であると、イリーンは殆ど我が心を制す事が出来ないほど、悔しく思ったが、翌日は愈々彼夫婦が他の客の群れと共に到着した。見ると手紙の意に違わず、真に愛し合う夫婦の様子で、離れ難い風情なので、イリーンは唯復讐の一刻も早く来るようにと、もどかしく思うばかり。

 イリーンがこう思うのは、世に言う嫉妬の類ではない。又春人に未練が残って居る為でも無い。かって春人の賎しい心を見抜いてから、愛は全く消え尽くし、彼を賤しむ一念とは成ったが、唯我が身の清きを思うだけ、益々彼の汚らわしさが許し難く、昔の愛の強かったことに引き較べて、今の憎みも又強いだけ。

 遊猟会は十二日の定めで、それまで一週間ほどの間、春人にも李羅子にも、日々顔を合わせない訳にはゆかない。合わせる度に夫婦の嬉しそうな様子が目に障るが、李羅子の方はイリーンの心にこの様な恨みが有るとも知らず、唯何となく打ち解けないのに気を揉んで、或る時親しくイリーンに打ち向い、

 「私は貴女を姉の様に思い、常々夫にこれほどの好い友達を得た事は無いと申して居ますのに、貴女は何だか余所余所(よそよそ)しく見えますが、何か私のする事にお気に障った事でも有りますか。」
と尋ねた。イリーンは言葉短に、
 「イイエ、何にも」
と答えると、
 「では夫春人の振る舞いに悪い所でも有りましょうか。貴女は春人に向っては、又一層余所余所しく見えますが。」

 イリーンは何となく、
 「ナニ人付き合いの悪いのが、私の持ち前でしょう。」
と答え、我が顔に現れる当惑の色を隠す事が出来ず、僅(わず)かにその場を立ち去って、この上問われる五月蝿さをを逃れたが、既にこの様に怪しまれる迄に至っては、愈々以って猶予は出来ない。何か工夫はと、空しく心絞るうち、忽ち浮かぶ一思案があった。

 爾(そ)うだ。いっそ李羅子に打ち向かい、充分の秘密を守ることを約束させ、その上で、春人の汚らわしい振る舞いを有りの儘(まま)に打ち開けよう。こうすれば、彼が李羅子の夫である位置まで怪しくなり、従って出世の道も塞がり、彼の身に一切の幸福が無くなる事になるだろう。そうだ、彼に取ってこれほど辛い事は無いだろう。我が身に取って是に増す復習の道は無いだろうと、思い至ってイリーンはその美しい顔に、一種の非常に気味の悪い笑みを浮かべた。


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