巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume41

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.12

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

更に大きくしたい時はインターネットエクスプローラーのメニューの「ページ(p)」をクリックし「拡大」をクリックしてお好みの大きさにしてお読みください。(画面設定が1024×768の時、拡大率125%が見やすい)

musumeitidai

               四十一

 彼がの様な偽り者、実に殺すの外は無し。そうだ、殺してしまおうとの決心は、一時にイリーンの胸に湧き出たけれど、人を殺すのはこの上無い大罪である。幼い時から、
 「汝殺す勿(なか)れ」
と言う、聖書の戒めを服膺(ふくよう)して育ったイリーンの身に取っては、固より為す事が出来ない所である。

 イリーンは心麻の様に掻き乱れ、最早一刻もこの所に留まる事は出来なかった。殺すにも殺さないにも、この上茲(ここ)に在って、彼の忌まわしい言葉を聞いては、我が身は必ず絶息してしまう。殺す殺さないその思案は後のことにし、兎に角も此処から去らなければならいと、震える足を踏みしめて立ち上がったが、我が部屋に帰るには彼等二人が凭(もた)れている、その窓の前を通らなければならず、唯背後の方に退き、裏階段から外に立ち出る以外に無い。

 此の家の内に居るのさえも、彼の身から発する偽りの空気に、我が身は咽(むせ)死ぬかと思われる程なので、いっそ晴れやかなる外に立ち出でて、我が心が良く鎮(しず)まり、我が思案が定まるまで、翠(みどり)滴(したた)る樹の陰に身を安めよう。こう思ったので、辛くもよろめく身を支えて逃げる様に此処から忍び去り、裏階段から庭に出て、庭から背後の山に入り、茂る木の間を縫い潜(くぐ)って、いずれへか迷い去った。

 春人夫婦はそうとも知らず、なおもその窓に凭(もた)れながら、
 「本当にこのような天気ですから、貴方は今から一同の後を追い、狩場へ行くのが好いでしょう。イイエ、私のお願いですから。私の心を静めようと思うなら、どうか今から行ってください。」
と他でも無い妻の勧めに、

 「爾(そう)サ、和女(そなた)が爾うまで言うなら、その意に従って行って見よう。鉄砲の掃除も出来ているし、衣服さえ着替えればそれで好いのだ。」
と言いながら、時計を見て、
 「今午前の十一時半だから、二時前には一同と一緒になる。」
 李羅子は、宛(あたか)も独語の様に、

 「ですが、男は狩などと言う事が何でその様に面白いのでしょう。罪も無く面白そうに遊んで居る獣を射たり、景色を愛して快く歌って居る鳥を出し抜けに殺したり、ネエ、貴方、本当でしょうか。男の何よりの楽しみは、物を傷付けたり苦しめたり、或いは又殺したりする事に在るのだと、昨夜も公爵夫人が言いましたが。」
と何気なく問う言葉も、今日に限りては春人の胸に、釘より痛く応えた。

 アア、イリーンがその様な事を言ったのか。我が身に対して深い恨みが未だ消えない。如何(どう)やら感ずる所があって、知らず知らず口に発したようだ。思えば成る程、男の心は物を痛めて楽しむ様な場合が多い。我が身のイリーンへの振る舞いも鳥獣などを射るのと同じく、その様な罪深い楽しみの一では無かったかと、急に心が穏かで無くなったが、犯した罪の報いと言うべきだろう。

 しかしながらそれも僅(わず)かの間で、やがて仕度をする為に次の間に退いたが、凡そ人の情として、如何(いか)なる悪事も一旦は必ず後悔する時が有るものなのだ。浮世の望み皆足りて、何不足ない身となると、過ぎた事を顧みて、あの事は非道だった。寧ろ為さなければ好かった。此の事は悪かった、思い留まれば好かった。今と為っては悔いもせずに済んだのになどと思い出すものだとか。

 今春人の様もその類で、一旦は燃え盛る情火のため、罪と知りつつ罪を犯して悔いなかったが、今は妻には愛せられ、世間からは敬われ、富貴栄達の道も開けて、何の不足も無い身の上と為った為、先々に待つ望みは足り、過ぎた事を思い出して、そろそろ後悔を始める時とはなったのに違いない。

 それはさて置き、彼早くも狩の装束に身を固め猟銃を肩に掛け、再び李羅子の前に来て別れを告げると、李羅子も非常に機嫌好く、
 「その代わり猟が済めば、直ぐ帰ってお出でなさいよ。外の方より遅れると聴きませんよ。」
 「ナニ遅れるものか。和女(そなた)の健康が気になるから、誰より先に帰って来る。」

 「それから、アノ今私がそう言った、あの木の許を通って行くのでしょう。此処が李羅子が初めて愛情を起こした所だと、そう思って忘れなさるな。」
と言いながら別れの接吻(キス)を移すと、何故か李羅子は急に我が胸が高鳴り、騒ぎ立つのを覚えたが、是が世に言う「虫が知らす」と言うものとも心付かず、唯昨夜来優れない我が気分の為とばかり思い、その儘(まま)春人を出して遣った。

 春人は此処を出てやがて彼の木の許に至ったが、今聞いた李羅子の言葉がまだ耳の中に響いて、何となく心嬉しく、独り口元にニッと笑むと、晴れた空も、輝く日も、我が身と共に笑むに似て、天地は何時もよりも広々としている様に思われ、楽しい事と言ったら限り無い。心の底にある悪心は総て隠れ、唯罪の無い善心のみが浮かんで来るのは、この様な時なのだ。

 「アア我が身ほど幸い多い者があるだろうか」
と腹の中で呟(つぶや)いたが、幸は常に災いの元とか言う。一寸先に如何(いか)なる運命が我を待っているかは、何人も知る方法が無い。唯ぼんやりと二、三丁又進むと、此の時茂る木の彼方に誰やら人の姿があった。枝葉の間からちらちらと春人の目に入るのは、今朝公爵夫人イリーンが纏(まとっ)て居た水色の絹服である。
 人は必ずイリーンに相違無い。


次(四十二)へ

a:890 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花