巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume47

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.18

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               四十七

 李羅子の気遣(づか)うのは無理も無い。イリーンは笑顔を示して慰めようと思ったが、如何(どう)して笑顔がの示さるだろう。我が手に掛けて殺すのよりもっと酷(ひど)い目に春人を逢わせた後、一時間も経たない中にその妻李羅子に笑顔を見られるのさえ、気の咎むる事なのにト、心に非常な苦しみを感じたが、何とか返事をしなければ済まない場合なので、ヤッとの思いに我が声を和らげて、

 「オヤ、貴女は恋病にでもお成りなすったのですか。一時間や二時間、夫の帰りが遅いからと言って、その様に心配する者が何処に有ります。」
言いは言ったけれど我が言葉、何時もの様に自然では無い。宛も他人の口から発するかと思うほどだった。李羅子もそれを怪しんでか、
 「オオ、夫人、貴方のお声は何だか変に聞こえますが、気分でもお悪くは有りませんか。」

 悪いも、悪いも殆ど居たたまれないほどに悪いけれど、大事の場合とイリーンは気を引き立て、
 「イイエ、少しもその様な事は有りません。貴女が気のせいでその様にお思いなさるのでしょう。」 
 「ホンに気の所為(せい)かもしれませんよ。先刻春人が出て行く時なども、何と無く胸に感じ、彼の目の前に不運が浮かんでいる様な気がしました。もしや世に言う虫が知らせると言うものでは無いだろうかと、この様に思いましたが、自分でヤッと打ち消しました。」

 「貴女こそ気分が勝れないから、その様な事をお思い為さるのです。誰でも加減の悪い時は詰まらない事が気に掛かります。」
 調子が合ったか合わなかったかは、イリーン自らは知らなかったが、兎に角是だけの言葉で幾分か心配が薄らいだと見え、李羅子はその愛らしい眼を挙げ、満面にイリーンの顔を眺めて、

 「では、今に春人が何の怪我も無く帰って来ましょうか。」
 この憐れむべき問いに会い、イリーンは何と答える事ができるだろう。怪我も怪我、助かるべき道の無いまでに大怪我をした人が、怪我無しに帰って来る筈が有るだろうか。それを知りながら空々しい返事をするのは、今まで嘘一つ言った事の無いイリーンの身に取っては、耐える事が出来ない所なので、あれこれ思案しようにもその暇無く、

 「それが如何して私に分かりましょう。」
 「それでも貴女は、どちらだと思います。怪我も何もせず無事に帰ると思いますか。貴女のご様子が何と無く変ですから、もしや私の耳に入れて成らないような事柄を、ご存知では無いかと私はこの様に思いますが。」

 流石に女の神経は、イリーンの胸の秘密を見破るまでに至ろうとするか。イリーンはハッと思ったが、戸惑うだけ更に益々疑がわれる場合、だからと言って言紛わす偽りは、我が口に出て来ないので、
 「私がもし貴女なら、少しもその様な心配は致しませんよ。男と言う者は得てして帰りが遅く成り勝ちですもの。」

 「でも春人は決して時を違えた事はありません。」
と言い、李羅子は力無く頭を垂れたが、漸くにして自ら思い直した様に、
 「成る程貴女の仰(おっしゃ)る通り、今にも無事に帰って来て、私がこれほど心配したのを笑うかも知れません。ですがネ、私はお腹の児が出来てから、一刻も春人の傍を離れる事が出来ません。」
と言う折りしも、食堂の方から会食の時刻を報ずる最初の鐘が鳴ったので、李羅子は又も気遣はしそうに、

 「ソレ、もう食事の時ですのに、それでも未だ帰りません。本当に貴女は無事に帰ると思いますか。」
 イリーンは仕方なく、
 「そう思うより外に、思い様が無いでは有りませんか。」
と口には曖昧に答えたけれど、我が目の前には、春人が森の中で血塗(まみ)れとなり、その苦痛に苦転(のたう)ちながら、我が身の無慈悲さを罵(ののし)る様子が、歴々(ありあり)と浮んで来た。最早李羅子の前を逃げ去る外は無いと思うばかり。

 しかしながら李羅子はイリーンを放そうとする様子は無く、宛(あたか)も小児が母の手に縋(すが)る様に、イリーンの手に縋って、
 「貴女はどうぞ私の傍に居てください。貴女の外には話相手も有りませんから。今貴女に行って仕舞われては私は倒れてしまいます。」
 この時又も第二の鐘の音が聞こえたので、イリーンは初めて気が付いた様に、
 「オヤもうこの様な刻限でしょうか。これほど遅いとは思いませんでした。」

 「未だ春人は帰らないでしょうか。それとも食堂へ来ていましょうか。」
 「兎も角も食堂へ行きましょう。」
と言ってイリーンは李羅子の機嫌を取る辛い役目を我が肩から一同の客に移すべき時が来たのを喜び、その儘(まま)手を引き食堂に入って行くと、固より春人の並び居る筈は無い、一同の客人は李羅子の心配そうなのを憐んでか、多く春人の事を話したが、誰一人春人に怪我などが有るのではないかなどと気遣う者は無く、ただ獲物が多いために時を忘れ、今もまだ林の中を経廻って居るのだろうと言うだけ。

 その中に食事も終り、夜も早や十時に及んだけれど春人の便りは無い。茲(ここ)に至って一同は初めて真実に憐れむべき事の様に思い出し、この儘(まま)には捨てて置くことは出来ないと言う人さえ有る様になった。


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