巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

musume48

嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.8.19

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               四十八

 最早十時になったけれど、春人は未だ帰らない。固より帰るべき筈は無い。しかしながら一同の客人は、真に彼春人の身に怪我などが有ろうなどとは思いも寄らない。人里から遠く離れていないこの界隈で、その様な間違いが有りようが無いとは何人も信ずる所なので。唯春人の妻李羅子の気遣かわしそうな顔色が、益々深く成って行くのを見て、それを和らげようと様々な説を語った。
 十時に至って猟場より帰らないのは、随分例のある事であると、異口同音に唱えたけれど、既に十時を過ぎ、十一時を過ぎるに及んで、イヤ道に迷って近村の誰かの家に一泊を求めたのに違いないなどと、思い思いに言い出したが、李羅子の不安心は少しも薄くはならなかった。

 イリーンの夫五田公爵は主人の事として、客の心配を捨てても置かれず、厚く李羅子をいたわって、気の利いた数人の山番を手分けして、夜通し狩場の近辺を探させようと云ったので、是に少し心安んじ、泣か無いばかりにその恩を謝して、我が部屋へと退いた。
 イリーンも傍に在ってこの言葉を聞いたけれど、春人の倒れて居る所は全く狩場とは方角違いなので、如何(どれ)ほど狩場の近辺を捜しても、分る筈は無いと思い、敢えて心を動かさなかった。

 この様な有様なので、一同は何と無く引き立たず、毎(いつ)もならば音楽台に登る者もあり、声を自慢に歌う者も有って、二時頃までは打ち興ずる所であるが、今宵は歌一つ歌う人も無く、十二時少し過ぎる頃には皆銘々の部屋へと退き尽したので、イリーンも我が寝間に引き籠ったが、今までは客の言葉などに紛れ、それほどとは思は無かったが、寝間が非常に静かになるにつれて、我が振る舞いの恐ろしさが活き活きと我が心に浮かんで来た。寝るにも寝られず、起きるに起きられず、アア悪事は総て己の振る舞いから露見すると、春人が我を罵(ののし)ったのも茲(ここ)の事か。

 我が身が彼を見殺しにするのは、素より悪事と言うことには当たらない。天の与えた復讐に止まるが、我が身の寝ることも出来ない有様を夫公爵を初め、その他の人に見られては、必ずただ事ではないと怪しまれる。
 何人も見ない所で一人苦しみ度いだけ、思う存分苦しむの外は無いと、入り口の戸に内から堅く錠を下ろし、是ならばと寝台に復(かえ)ると、又気に掛かるのは部屋の窓である。

 思えば丁度この窓は、彼春人が血に塗(まみ)れて苦しんで居たその方角に向っている。
 雲間から洩れる月影の差し覗く様に思われのも、彼の恨みからではないか。彼はこの儘(まま)では死なないと叫び、一時に一寸づつでもにじり寄り、幾時間掛かろうが助ける人の有る所まで行って、我が身の罪を言い立てると言った。

 今頃は彼は何処までにじり寄ただろう。今にもこの窓の外まで来はしないか。今にも彼が助けてくれと打ち叫ぶ声が聞こえはしないかと、唯恐ろしさが益々加わるばかりだった。窓を開いて外の様子を見ることさえ出来ない。空しく二時、三時と鳴る鐘を聞き尽し、四時になったがまだ眠らず、五時になってもまだ動かない。竦縮(すく)んで寝台に凭(もた)れたまま、悶え明かす一夜の長さは、年よりも長いかと疑われ、この間のイリーンの苦しみは傷に倒れて山の中に煩悶する、春人の苦しみにも劣らないに違いない。

 漸(ようや)くにして永い夜は明けたけれど、窓の外に春人の這い寄った跡も無い。さては彼、流れ出る血と共にその身の力が尽き果てて、全く死に切った者に違いない。今にも人目の隙あれば、昨日彼に約した通り、父から偽婚姻の指環を受け取り、彼の死に様を見届けに行こうなど、この後の思案に移る折しも、外から軽く戸を叩く音と共に、我が名を呼ぶ悄(しお)れ果てる李羅子の声があった。

 この声を聞きイリーンは忽ち非常に深い憐みの念を催し、我が身は春人の罪を憎むが為、罪無き李羅子まで罰するに至ったかと思い始めたが、今は心を弱くする場合ではない。兎も角我が身が夜一夜、苦しみ明かした事を悟られては成らないと思い、形を正して戸を開き、
 「イマ貴女の部屋へ伺おうと思って居ました。」
と言うと、李羅子は泣き腫らした目を上げて、

 「本当にどうしたら好いでしょう。未だ春人は帰って来ません。」
 イリーンは何と返事をしたら好いか分らなかった。
 「昨夜公爵が山番に手を分けさせ・・・・」
 「ハイ、探させて下さったけれど、少しも行方が分かりません。何処か人目の着かない所で、怪我でもして、倒れて居るのではないでしょうか。」
 宛もイリーンの心中を見抜いた様に言うのは、夫を思う一念が自ずからそう言わせたものだろう。

 イリーンは唯わずかに、
 「倒れて居れば、山番が見つける筈ですが。」
 「もし晩方までも帰らなければ私は泣き死にます。ハイ私がこれほど心配するのを知りながら、帰って来ない様な春人では有りません。帰る事が出来ない程の怪我をしたのに違い有りません。夫人、どうしたら好いでしょう。」
と言いながら縋(すが)ってイリーンの胸に泣伏した。
 アアいじらしいこの姿は、再び夫の身に縋(すが)り付く時も無く、其の身早や既に寡婦の身となろうとしているのに、そを知らずに夫、夫と泣き叫ぶのかと思えば、イリーンは我が仕業の益々恐ろしく、一層の事、何もかも打明け様かと、殆ど口まで込み上げた。

 今我が口から一言の誠を吐けば、屋敷中の人、彼の所に馳せ行って、彼春人を担いで来て、医者を呼び薬を与え、この貞実な李羅子の手で、介抱と言う介抱をし尽くし、再び元よりももっと親しい夫婦となるだろう。是に増す功徳はあるだろうか、是に増す善行はあるだろうかと、胸は矢竹に騒いだが、その代わり彼が助かれば、我が身は如何(どの)ような境涯に陥入(おちい)るだろう。

 折角の復讐は唯一歩の真際で覆(くつがえ)り、彼に我が罪を言いたてられ、我が身の運命は再び彼の手の内に落ちるだけ。其の時こそは、我が彼に辛く当たった事に輪を掛けて、彼は我に百倍も辛く当たるだろう。
 否、否、幾等李羅子が可哀想でも、決して露ほどもこの恐ろしい真実を打明けるべきではない。我が心を鬼にして、唯彼を死ぬが儘(まま)に死なさせるべきだと、漸(ようや)くに思い極めたイリーンの胸の中は、又察するに余りあり。


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