巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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嬢一代   (明文館書店刊より)(転載禁止)

バアサ・エム・クレイ作  黒岩涙香 翻案  トシ 口語訳

since 2013.7.10

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           八

 婚礼の儀式と言っても実に簡略なもので、唯彼の怪しそうな長老は、嬢と春人(はるんど)に姓名及び生まれた年月を聞いて帳面に記し、春人の持って来た固めの指輪を嬢の指に環(はめ)させて、その上で通例婚礼の時に言い渡すような儀式の言葉を言い渡したに過ぎず、是が男女の一生を結び付ける儀式かと思うと、殆どあっ気ない程だったが、嬢はこれでも生涯の大事だと深く心に感じ、身は早や西富郷の西富子爵夫人に成り就(おお)せた心地して、この矮小(いぶせこ)き長老の住居(すまい)を立派なものの様に心得、長老その人の顔を氷翁(むすぶのかみ)の様に思って、後々まで忘れなかった。

 是から凡そ一週間を経た頃、仏国(フランス)の都パリ府の某旅館に、英人瀬川氏夫婦と称する男女一組の旅人があった。夫瀬川氏の立派なことはパリの貴紳社会にも多く類を見ない程なのに加えて、その若き妻、瀬川夫人の美しい事は又驚くべきばかりで、殊(こと)に夫妻とも金銭に糸目の無い贅沢な暮らしをして、毎日の様に二頭立ての新しい馬車に乗り、公園で運動し、或いは名所を見に行くなど、きっと英国屈指の金満家が蜜月の旅に来たものに違いないと、誰が目にも知られる程なので、瀬川夫妻の名は早くも満都の評判となり、少しの事を通伝(つて)として、近付きを求める人も多く、通伝(つて)から通伝(つて)により身分、家柄の高い家で行われる夜会にまで招かれる事と為り、至る所で瀬川夫人はパリの美人をして顔色無からしめる迄輝き出した。

 この夫妻こそ子爵西富春人(はるんど)と前のイリーン嬢で、婚礼の翌日直ちに旅の支度を調え、その秘密を保つ為瀬川という仮名を名乗り、凡そ一年半の計画で蜜月の旅を欧州大陸に取り、先ず手始めにパリに入り込んだものである。

 イリーンはこの時までも我が夫が如何(どれ)ほど富、如何ほど我が身を愛しているのかを知らず。又浮世とは如何ほど楽しい所にして、夫婦とは如何ほど幸福なものなのかを知らなかったが、旅に出る時の買い物から、我が身に与える衣服調度その他の飾り物に至るまで、夫が最も値の高い物だけを選び、我が身が欲しいと言う物は一刻をも移さずに買い求めて呉れるなど、痒い所へ手の届く程であるのを見て、夫の富はその愛と共に限り無いのを知り、この様な夫に操を尽くし、この様な夫に貞女と為らなければ、幸せの程が恐ろしいと、只管(ひたすら)に身を責めて仕える様にしているが、更にその行く先々で数多の人に愛せられ敬われ、見るもの聞く物皆新しく、且つ嬉しく、不足と言う物が一点さえも無いのを見て、浮世とはこれ程に幸福な物なのか、我が身は如何なる月日の下に、これほどの幸福を得て生まれたのだろうと自ら怪しみ、この上もし英国に帰り、愈々(いよいよ)西富子爵夫人と名乗り出て、父にも安心させる事ができるならば、最早やその儘(まま)死んでもかまわないと幾度か夫に語った。

 パリに留まること凡そ半年に及んで、イリーンの生まれ得た美しさは都の化粧で磨き上げ、嫌が上にも美しく、楊柳の影に行く水を眺めて居た田舎娘の恥ずかしそうな風情は全く消え、自然と備わる気位は、起(た)つも歩むも三千の宮人の尊敬を受け慣れて、一視同仁(いっしどうじん)の愛嬌を分かち行く女王の様で、人の機嫌を取る様な美しさでは無く、人に機嫌を伺われる非常に貴い美しさとなり、見る人は自ずから首の垂れるのを覚えた。

 だからと言って自ら我が器量にうぬぼれ、自慢する様子は無く、真似(まね)るにも真似られない天性の優しさで、物言えば春風室に満るかと思われ、開く目に照らされては、草木の露に潤される想いがする。実にこれは生まれながらの貴夫人にして、欧州いずれの朝廷にもこれほどの品位のある女王は居ないだろう。この様なので寄って来て交際(まじわ)りを求める人が多く、夜会の外に様々な招待状を送る者は引きも切らないが、何故か春人はその人その場所の選嫌(えりきらい)をすることが非常に厳しく、何とかして妻イリーンに親密の友達を作らせまいと勉めているようだ。

 女は特に心淋しい者にして、同じ年頃の女と互いに問訪(といおとず)れ姉妹の様に、又親類の様に交わるなどはこの上無い楽しみなのに、春人は通り一片の近付きは善いが、用も無いのに訪ね訪ねられする女同士の交わりは夫の癪に障るものだなどと言い、イリーンを我が身よりほか何人にも親しませない様にするので、イリーンは時々怪しんだけれど、結局は我が身を愛する余りの事なのに違いない、この後更に幾月かこの土地に留まるうちには、自然と友達の出来ることも有るだろうなどと思い直し、強いてとは求めなかった。

 パリの逗留は更に幾月か続くはずだったのに、或る朝の事、イリーンは何時もの様に春人と共に宿の二階の運動場に出て、その日の新聞紙を開いて春人に読み聞かせて居るうち、左の一項に読み到った。
 英国の貴族是蘭(ゼランド)伯爵は公務の余暇を以ってその令嬢李羅(リラ)嬢を携え、近日パリ府へ来られる事になると聞き及ぶ。
 唯訳も無い一節だが、春人は聞いて打ち驚き、
 「何、誰が来る、どれその新聞を」
と言い、慌(あわただ)しく己が手に取って読み直し、殆ど顔色を変えて立ったので、イリーンは思わず、

 「オヤ、如何(どう)なされましたか?」
と問うと、
 「ナニ、煙草で指を焼いたのサ。」
と答え、その新聞を衣嚢(かくし)に納め、
 「少し用事があるから其処(そこ)まで出て来る。」
と言い捨て、何処かへ立ち去った。
 イリーンの心では、これだけの事で固(もと)より疑うことでは無いが、唯何となく是蘭(ゼランド)伯爵と言い、その令嬢李羅(リラ)と言う二人の名前が浸み込んで気に掛かかった。

 やがて二時間も経った頃春人は帰って来て、落ち着かない気色で、
 「もうパリに飽きたから直ぐに立ってローマへ行く、ローマに」
と言うので、イリーンは再び怪しんで、
 「でもこの上まだ二月ほどは、この土地に留まるという約束でしたが。」
 「イヤ、飽きた、飽きた、ローマが今丁度橙(オレンジ)花の花盛りだと言う事だから直ぐ行く。今夜の汽車で。」

 急ぎ立つその様は夜逃げする人に似ているが、イリーンはそうまでは気が付かず、唯我が夫はそれほど橙(オレンジ)花を愛するのか、日頃その様な話は聞かなかったのにと不思議に思うばかり。


 
※注;一視同仁・・・・すべての者を広く分けへだてなく愛すること



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