巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百十一回 美人国へ間者(スパイ)を

 茂林の唯一言の煽動で魔雲坐王が遊林台に入り込もうと決したのは、先ず一まずの幸いである。彼れ王が芽蘭(ゲラン)夫人を請い受けて帰国すると云う毎(いつ)もの請求だけは予防する事が出来た。

 しかしながら又思って見れば、遊林台の国に在ると聞く、美人軍の勢い盛んなことは恐それない訳には行かない。巖如郎(ガンジョロウ)の云う様に、ただ野蛮国中の最強兵であるのみならず、文明国中にも之に匹敵する者が有るとは思われない。

 針を植えた鉄の鎧に身を堅め、左右の手に刀と剣とを提(ひっさ)げ、電光石火の様に之を使ふう業が有ると云う様な事は、聞いた丈でもそれが容易ならざる対手(あいて)である事が知られる。更に野蛮国の中には、走る事が馬より早く、跳廻る事が鳥よりも軽い人種も有る。

 遊林台の民は、恐らくはその類であるのに違いない。その中でも未婚の女子には往々にして、男子より手足が軽快に動く者が多い。之を集めて軍と為し、天下無比の精兵を作る事が出来た事は深く怪しむに足りない。

 この様な剽悍(ひょうかん)《動作が素早く性格が荒々らしいこと》なる敵が眼前に在る事を知って、その国に入り込む事は、或いは無謀の挙では無いだろうか。魔雲坐王の兵を合わせて一行悉(ことごと)く殺される事と為ったなばら如何する。

 我れに文明国の兵器ありと雖も巖如郎の云う様に、火薬は必ず尽きる時がある。況(ま)して我が兵は、数多しと雖も、魔運坐が率いる者は、三千に過ぎない。銃器を用いる名澤の兵は、僅か百人に満たないのだ。

 此の人数を頼みとして剽悍(ひょうかん)《動作が素早く性格が荒々らしいこと》無比の敵地に入ろうとしている。而も敵兵の数は我れに幾倍するかも知らない。たとえ銃器火薬の力で、首尾好く其の国に入り込む事が出来たとしても、若し肝腎の芽蘭男爵がその国に居なかったならば如何する。

 その時こそは一切の辛苦は総て徒労になってしまう。平洲は素より茂林自身すら、この様な心配も無い訳では無い。一方に魔運坐王の決然たる言葉を聞き乍ら、又一方には気に掛かる事が多いので、茂林は更に魔運坐王に向かい、

 「御身の勇気は実に感心ずるに余りある。芽蘭夫人もきっと満足に思っておられるに違い無い。しかしながら美人軍を敵とするには、深く計略を要する所が有るので、明日まで吾等にその計画を尽くさせて欲しい。」
と云うと、王も之を無理とはせず、

 「当然の事だ、充分に謀り事を定めた後に進もう。」
と答えたので、此の日は是で休息する事と為った、一同は此の国の国王の巖如郎の客分として、夫々天幕を張る土地等を割り与えられ、引き続く旅の疲れを少しは休める事が出来たが、唯だ平洲と茂林とは、行く手の事ばかりが気に掛かり、眠ろうととしても眠る事が出来なかった。

 平洲先ず天幕の外に出で、空に輝く星を眺め、故郷の空と赤道近辺の空とは星の様まで多く違い、見慣れた星座の甚だ少ないのを見て、故郷の事などが思い出され、様々の感慨に殆ど我を忘れている折しも、茂林も又出て来て、

 「オオ君も寝られないと見えるな。」
 「オオ君もか。」
と言って、是から相携えて漫歩するうち、茂林は考え考え口を開き、
 「吾々が遊林台の国へ入り込む事は、真に命掛けの場所だから、一応前以て間者を入り込ませ、果たして芽蘭男爵が其の国に捕らわれて居るのかどうかを探らせ、其の上の事にするのが好いだろうと思う。何(どう)だろう。」

 「僕もその心だ。若し男爵が此の国に危険を悟り、道を東か西かへ曲げたと云う見込みが附けば、吾々はここから直ぐに西なり東なり、その男爵の行ったと思われる方へ曲がるのが好い。何も無益に危険の地を踏むには及ばない。寺森医師だけは、美人国へ入り込まずに、道を曲がるのは残念だと云うだろうがー。」

 「そうサ、東へ曲がれば残日坡(ザンジバル)の方へ出られるに違い無い。西へ曲がれば遙青山の裾を廻って、何でも遠く丹鵞(タンガニーカ)湖の方へ行かれるだろう。若し男爵が輪陀女王の捕虜には為って居無いと為ったならば、必ず西へ曲がった者と僕は思う。」

 「勿論そうだ。成るべく広く未知の地を探検するのが男爵の目的だから、人の知った残日坡(ザンジバル)へは向かわず、広さ限りの無い西南へ向かっただろう。間者を先発させて探らせるのはどちらにしても必要だ。併し何(ど)の様にして間者を派遣する。」

 「サア其の事だ。僕は様々に考えたが、此の国の王が年々遊林台へ貢物を送ると云う事だから、その使いの中へ間者を入れれば好かろうぢゃないか。」
 「けれども其の使いは何時出発するかも知れない。若し数ケ月の後で無ければ出発しないと云えば、何うする。」
 「イヤその心配は無い。君はここへ来る道々、牧場の様な草原が有って、その草原は案外牛羊が少ないと云う事に気が附いただろう。」

 平洲は異様な問を聞く者かと思いながら、
 「そうだ、牧場は沢山有ったが、牧らせられて居る牛羊が割合に少なかった」
「夫れだからサ、僕は草などが多く蹂躙(ふみにじ)られて居る様を見て、初めから牛羊が少ないのでは無く、沢山居た牛羊を俄に外へ取去ったのだろうと思った。」

 「それが何うしたのだ。」
 「イヤ君は毎(いつ)に無く悟りが悪いよ。此の国の王巖如郎が貢として牛羊を輪陀女王に贈る為め、此の頃牧場から取集めたのに違い無い。それだから草は蹂躙(ふみにじ)られた儘(まま)で未だ好くは延びて居ず、そうしてその割合に牛羊が少ないのサ。総て此の邊の貢物は、牛や羊だと云ふことだから。」

 平洲は漸く合点し、
 「フム、その観察には感心した。併しもう既に貢として送出した後では無いのか。」
 「イヤそうでは無い。僕は夕刻に、遥かに王宮の背後邊で、群牛の鳴く声を聞いた。何でも方々の牧場から取集めた牛を、王宮の近くでまとめて飼って有るに違いない。近日貢物の使いを発しようと思って居る為だよ。」

 「成る程」
 「それは念の為に明朝王に聞けば分かる。果たして僕の推量通りとすれば、その使いの中へ間者を入れて遣るのは訳も無い事。」

 「シタが間者には誰をする。」
 「サアその人選が甚だ困難だ。君と大いに相談しなければならない。」
 平洲は眉を顰(ひそ)め、
 「フム間者とは云う者の、此の上も無い大任だから、容易な者には任されない。」
と言って深く考え込む様子であった。



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