巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou117

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百十七回 芽蘭夫人への未練

 しかし国中に幾筋も小川が有るとすれば、きっとその源であるべき湖水の類も多いだろうと平洲は心中に地理を描いて、
 「何しろ我々が是から進み入る土地だから、地理を知るのが何よりも大切だ。小川が有れば沼や湖水も有るだろうな。」

 「イヤ沼には一つも出会いません。小さい湖水は二ケ所ほど有りました。」
 茂林は傍らから、
 「是から先は芽蘭(ゲラン)男爵の外、ヨーロッパ人が一人も入り込んだことの無い所だから、湖水でも何でも、もともと一定の名が無いのだ。一々吾々の名を附けて平洲沼とか、茂林湖などと呼ぶ事にしようでは無いか。」

 「その様な相談は後廻しとしなければならならない。亜利よ、輪陀女王の支配地は余程廣い様子か。」
 「ハイ、詳しくは分かりませんが、国境から王宮へ達するまで二百哩(マイル)以上は有ましょう。東西は何れほど長いか分かりませんが、門鳩(モンパト)国や此の麻列峨(マレツガ)国に劣らない大国とは思われます。」

 平「王宮から先は何の様な所だ。」
 「王宮より先は有ません。王宮は山を切り立てた様な絶壁の下に有ります。」
 「アアその山が多分遙青山だな。王宮は遙青山の北麓に在るのだ。」
 「イヤ私は小さい磁石を以て居ますから方角を計りましたが、その山は王宮の東南に当たります。王宮は山の最北麓に在るのです。」

 「フム遙青山の山脈がその所で、少し筋違いに成って居るのだろう。シタが王宮からその山へ登って行く事が出来るか。」
 是れは真逆(まさか)の時の用意にと聞いているのだ。若し輪陀女王と兵を交え、不幸にして敗れる時は、北に引き返して逃げるより、南にその山を越して進もうとの考えに違いない。

 「何うして登られましょう。今申す通りの絶壁で、屏風を立てた様に囲み、それより南へは一歩も進む事が出来ません。」
 さては愈々(いよい)よ以て難儀の場所である。平洲は非常に当惑気に、

 「茂林君、その様な行き詰まりの所とすれば、事に由ると吾々は進みも退きも出来ない場合に陥るかも知れないゼ。」
 「そうさ。鳥の翔を借りてその絶壁を飛び上る事が出来ない以上は。」
 「しかし亜利、絶壁の何所かに、細道でも有りはしないか。」

 「私もそう思って方々を見廻しましたが、何うも攀登(よじのぼ)る場所が有りません。絶壁の上には今まで見た事も無い様な大きな岩石が、笠の様に突き出ていて、それが若しも砕けて落ちたなら、一部落皆圧潰(おしつぶ)されるだろうと思われる様に成って居ます。

 私は随分廣く旅行しましたが、遙青山ほど大石の有る所は見たことが有りません。」
 平「ハハア、シテ見ると、その邊が丁度アルバート湖へ落ちて居るマルンソンと云う大瀧の背後に当たるのだろう。ネエ茂林君、吾々と反対にアフリカを南から北に向かって探険した人が、アルバート湖の西北岸に世界第一の高い大瀧が有る。

 即ち遙青山からアルバート湖へ落ちて居ると云うその瀧を、マルンチソンと名附けたと、我々が巴里を出る少し前に出版した地学協会の報告書に記して有ったぢゃ無いか。」
 茂「そうそう、マルンチソン大瀧の近辺は、世界無類の大石が累々として有ると書いて有った。成るほど輪陀女王の都はマルンチソンの大瀧と背中合わせだ。」
     
 亜利も思い当たったように、
 「そう仰有れば分かりました。輪陀の王宮に泊まって居るうち夜になり、人が寝鎮まると山に何だか遠雷の様な響きが聞こえます。私も山の何所かに大きな瀧でも有る為だろうと思いました。」

 最早や疑う迄も無い。輪陀の国は遙青の山一つを隔て、アルバート湖と隣り合わせになっているのだ。北からした探険と、南からした探険との間を結び附けようとした芽蘭男爵の大目的は、今一歩で達する所まで押し寄せて有るのだ。

 否遙青山の麓は、今云う様に絶壁にして到底人間が越うことが出来る所では無いとすれば、芽蘭男爵は既に此の上一歩も進むことが出来ない所まで進んだ者だから、既に南北両方の探険を結び附ける事が出来たと云っても好いのだ。此の後誰が来ても、男爵よりも南へは進む事が出来る筈がないからだ。

 茂林は暫らく考え、
 「何しろ芽蘭男爵は大した者だ。単身でこれほど迄に探険する事が出来たとすれば、身は蛮地に死するとも、残念に思う事は無いだろう。イヤ寧ろ男爵の心では、吾々に救われて帰るより、その所で死ぬのを一身の名誉として甘んじて居るのでは無いだろうか。その甘んじて居る人を、無理に救い出し、芽蘭夫人に渡すのは吾々の為に云っても得策で無いかも知れん。」

 平洲は真面目に、
 「馬鹿な事を言い給うな。男爵は既に、口さえ自由に開かれ無いどの厳重な捕虜と為って居るぢゃ無いか。吾々同国人が既にここまで来た柄には、たとえ名も聞かない人としても、救い出さずには置かれ無い。況(いわん)や英の李敏敦(リビングストン)か仏の芽蘭(ゲラン)かと云われる程の大探険家だもの、男爵自身が救われて喜ぶか迷惑するか、それは吾々の知った事で無い。何が何でも救わずには見捨てられない。」
 
 茂林は情無き語調にて、
 「それはそうだが、男爵を救うのは芽蘭夫人を失うのだぜ、男爵が無事に返れば、芽蘭夫人は極まり切ったその妻で、君の物とも僕の物とも成る望みは絶え果てるのだ。

 男爵を救わなければならない同胞の義務は、云われ無くても分かって居るが、寝ても覚めても忘れる暇の無い芽蘭夫人をば、この様にして手の中から失う為に、幾千里の辛い旅行を企てたかと思えば、僕は余り我が身が恨めしい。吾々は運命と云う者に馬鹿にされて居るのだ。」

 「イヤ僕としてもその恨みは君に劣らない、今が今まで、若しや男爵が既に黄泉の人と為ったのでは無いだろうか、間者《スパイ》亜利が、或いは男爵の訃音を齎(もたら)せて帰るかも知れないと、此の様な想いを繋いで居た。

 しかしその的が外れて見れば、吾々の務めは明白だ。人の妻に懸想するなどと云ふ罪深きーーー。」
 「イヤ人の妻に懸想するのでは無い。懸想した女が人の妻と分かったのだ。」

 「どちらにしても同じ事。唯だ運命と断念(あきら)めて、男爵を救うだけだ。」
 茂林は日頃一点の未練も無い、男の中の男にして、又男爵を救はなければならない同胞の義務は充分に心得て居るけれど、今までの千辛萬苦を思っては、平気に断念(あきら)める事は難しいと見え、

 「もし君、輪陀女王は非常な美人だと云う事だぜ。未だ年も若いと云うぜ、若し輪陀女王が男爵を我が夫とする積りで、殊更ら宮中へ囲って置くのでは無いだろうか。男爵として女王の美しさに感じ、我々が救う事を余計な世話だと思いはしないだろうか。今は未だそう思わなくても、追々そう思う様に成りはしないだろうか。我々が救うのは結局男爵に邪魔かも知れないゼ。」
と非常に異様な異議をまで持ち出すのも、其の心が切なる為めではないか。



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