巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou120

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百二十回 残酷な輪陀国

 如何にも寺森医師の云うう様に、平洲、茂林の両人は可通無《ハルツーム》を出る時、芽蘭(ゲラン)夫人からこれ以上の同行を断られ、然らば最早や巴里を出る時の心を捨て、恋などと云う念を断って、唯だ芽蘭男爵を救い出す為に同行しょうと、改めて夫人に約束した者なので、今更ら夫人の心中を右(と)や左(か)く推量すべきでは無いはずだ。

 唯だ同胞相救う義侠一片の心を以て進まなければならないと、却って益々発奮したので、
 平「イヤ寺森君、良く云って呉れた。今日以後芽蘭夫人は僕等の目に女とは見ない。女で無い男だ。我々の兄弟だ。」

 茂林も此の語を受け、
 「吾々は一切の未練を捨て、夫人を兄弟の様に思って、男爵の救い出しに尽力しよう。」
と悔いて飜然(ほんぜん)改めるのは、両人がフランス人種の気質中で、その最も純粋な部分を受けて生まれた事を見る。寺森も深く満足し、

 「君方が快くそう云って呉れれば、僕としても言った甲斐が有ったと云う者、では一刻も早く男爵救い出しの用意及び相談に着手しなければならない。先ず男爵の手紙を読んで見たまえ。」
と、意見する身が意見せられて、さて男爵の手紙を開いた。

 その文は先に男爵が土門陀(ドモンダ)の領地で老黒人の小屋の壁に貼り附けたのと同じく、非常に細かに書いた者で、紙は手帳を裂いて幾枚も重ねた物で、墨は即ち鉛筆なので、茂林はそれと見て、

 「アア男爵はまだ魔法の筆を一本蓄えて居ると見えるな。」
 「そうサ、使い古しを巖如郎(ガンジョロウ)に与え、大いに彼を驚かしたけれど、まだ此の先でも同じ魔法を使わなければならないと見て、保存して居ると見える。」
と云い、愈々(いよいよ)読み下す文に曰く、

 「アア余を救う為めに、遥々(はるばる)ヨーロッパからの遠征隊とな。本国にたとえ一人でも余が事をこれ程まで心を掛けて呉れる人が有るとすれば、余は最早や死すとも悔いは無い。余は何とかしてその遠征隊に返事を送り、一片の謝意を表しなければなら無い。

 遠征諸君よ。余は実に謝する言葉を知ら無い。今から余の終身の心は唯だ諸君に恩義を感じるだけに委ねよう。だからと言って厳重な捕虜と為り、隙間も無く見張られる今の身で如何にして返書を作ろう。番人に賄賂しようにも、身に在るのは使い減らした一本の鉛筆と手帳だけ。

 手帳の紙でさえも残り少ない。此の返事を認める為に破り尽くした。番人の眠る間を偸(ぬす)み、三夜五夜掛かろうとも返事だけを書き列(連)ねよう。遠征の人々よ。余の乱筆を咎める勿(なか)れ。

 余は何とかして此の土地を抜け出して諸君に、此の国に踏み込んで余を救って呉れと請う事は出来ない。余は既に死んだ者、最早や救うに道なき者と断念して、余を捨て置いて本国へ帰る事を請わざるを得ない。
諸君が此の国に入り込めば、その日の中に皆殺しにせられる事は火を見るよりも明らかだからだ。

 余は今から三ケ月前、捕虜の境遇を脱して、更に南進しようとした。
幾多の工夫を経た上、一夕番人が眠って居るのに乗じ、首尾好く王宮を脱出する事が出来た。
 脱出(ぬけいで)てどちらに行こうか。南に進むのは遙青山の懸崖が高く、千仭(せんじん)の上から遮っている。攀(よ)じ登るにも攀(よ)じ登る事は出来ない。

 西に廻れば必ずどこかに低い谷間があるはずだ。
谷合を通り抜けたならば、多分はアルバート湖若しくはビクトリア湖の沿岸に出る事が出来るのではないかと、只管(ひたすら)に西を指して走った。悲しいことに翌朝、王宮で余の脱し去ったと気付くや、直ちに近衛の兵を八方に分けて探らせたとの事だ。

 余は翌日の昼前に、王宮を離れる事十哩(マイル)《約18.5km》の地で捕らえられ、王宮に連れ帰えられた。
 此の時まで余は捕虜とは云え客分同様で、非常に廷中に尊(敬)まわれ、直接身体には何の拘束をも受けて居なかったが、是からは腰に鉄鎖を附けられ、犬の様に女王の腰掛に繋がれる事と為った。

 唯だ女王を初め国人一同、余を物知りの人と称して敬まって居たので、余は別に残酷な苦痛を受ける事は無くて、余は到底又と逃げ出す事は出来ないことを知った。此の国の残酷な習俗は、到底諸君の信じる事が出来ないところだ。

 余が逃げ出して通った村々の者は、余を遮り留(とど)める事を為さなかったとの罪に問われ、朝廷からその村々に火をを放ち、一家も残さず焼き尽くした上、その住民三百名を死刑に処したのだ。アア余は夜中人の寝鎮まった頃に走ったので、何人とても余の逃げ去るのを見た事は無く、勿論余を遮る事が出来る筈は無い。

 而(しか)も之を罰する事は前の通り。これ以来此の国中の人は、余に対しては皆警官の様だ。余は一人で王宮の閾(敷居)をすら、外に出る事は出来ない。出れば忽(たちま)ち捕らえられる。実に余に対する此の国の警戒は、蟻の出るべき隙も無いほど厳重である。

 厳重な事は可なりとしても、余が僅かに十哩(マイル)ばかり逃げ出した為に、百軒ほどの家は焼かれ、三百人は命を失ったとすれば、余はどうして無辜(むこ)《罪の無い》の民三百人の命を奪って、余の一身を助けることに耐えられようか。

 余は全く逃げ去ろうとする心を断ち、此の蛮地に於いて、此の国の土と為る事に決心した。この様に決心する外は無いからだ。今も此の決心は変わって居ない。今日以後と雖も到底変える事は出来ない。



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