巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou126

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

since 2020.8.19

a:194 t:1 y:0


下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

       第百二十六回 用意周到な輪陀女王

 初めから命掛けの旅ではあるが、真に命が尽きる所は、黒天女の国に違いないと、一同心の中に死を決し、出発の準備をすると、三日目になって手落ちも無く整った。

 愈々(いよいよ)出発に臨み、平洲は此所まで送って来た彼の麻列峨国王巖如郎に向かい、先頃此の一行が案内者として土門陀国から伴って来た老黒人を手厚く処遇する様に頼むと、巖如郎は勿論の事だと言って、心好く承諾し、且つ言うには、

 「彼の老黒人は、元もと我が先王の近衛兵として、敵国に捕らわれた者なので、彼が敵国に居る間は余が国の恥辱である。彼が御身等の為に救われて帰った事は、国辱を雪(そそ)いだのも同じなので、是だけでも然るべく賞する事は当然であるのに、更に彼は敵国で窘(くるし)められ身体に大変な傷を受けて、今日まで生き存(ながら)えていた事は、勇士の本分とも云わなければならない。

 その上に白人を救い、看病して敵国で生き神とまで崇められるに至った事は、古来例(ためし)の無い所なので、余も永く彼を預言者と崇めて、余の宮中に上席を与えるだろう。」
と誠実の心がその顔に現れていたので、平洲、茂林も安心し、愈々ここを出発したのは巴里を出た翌々年の二月の末方である。

 一行の中、最も別れを巖如郎王に惜しんだのは帆浦女である。帆浦女は王の姿が見え無くなるまで、振り向いては我が手の甲に接吻して、幾度と無く名残の意を示し、時には歩く事が出来ない程の事も有ったが、その度に寺森医師が引き立てたので、漸く一行に後れない様にすることが出来た。

 一行は魔雲坐王の兵を先に立て、次に銃器を賦与した彼れの精兵を置き、その次に芽蘭夫人及び平洲、茂林等の一同が続き、後から人足及び輜重(しちょう)を従わせ、名澤の兵を以て最後の警衛と為した。

 進む事数里で、その日の中に黒天女国の領内に入り込む事が出来たが、何時敵から襲われるか予測もつかないので、スハと云う時には直ぐに戦えるように準備をして、怠たらず偵察して進むと、未だ此の一行が領内に入り込んだ事が輪陀女王に知られて居ない為か、敵らしい者も無い。

 沿道の村々の民は、出て来て一行を観るとは雖も、今まで通手来た他の蛮民の様に騒がしくは無い。口々に怪しみ呟く等の事が無くして、無言のままで同道するのは、物に動じない大国民の風ありとも云える。今の此の一行を粉砕して、一人も生きては返さないとの決心を、胸の底に蓄えて居る様にも見えて、何となく薄気味の悪い心地がせられる。

 是等の中には芽蘭男爵の手紙に在った様に、美人兵のうち戦場に功を立てて良人を持つ許しを得て、地方に帰って警察官に成った者かとも思われる美人も有り、寺森医師はその者共の体格を見て、非常に感心した。

 実に此の国の人種は身体の発育が非常に良くて、欧州文明の人種にも劣ら無い。きっと膂力(りょうりょく)も優れ、戦いも強いに違いないと、一種の恐れを帯びて、褒め立てるのも無理は無い。如何にも此の人種は何よりも己れの身体を大切にすると見え、少しも他の野蛮人の様に身を傷つける飾り物は施さず、針で突いた文身(いれずみ)も無ければ、有害な絵の具を以て顔を粧(装)うなどの事も無い。

 色こそ黒いが一点の傷も無い天然の美玉にも比すべき者なので、寺森は進むに従い、
 「何うしても此の人種は天神の子孫だ。」
 「此の国の女は、天女が生み落としたのに相違無い。本当の黒天女だ。」
など続けざまに言ったが、やがて二日間道を進んだ頃から、意外な強敵が現らわれた。

 それは前から覚悟していた美人軍では無く、現地語で、
 「ツエツエー」
と称する一種の毒蠅である。此の蠅の特質は人体には害を為さないが、馬には非常な毒を與え、之に刺された馬は、直ちに病を発して斃(たおれ)るのを常とする。

 それで一同は非常に心配して、及ぶだけ予防を施したけれど、何しろ小さい蠅にして、木の幹、草の葉に隠れ、馬の臭気を嗅ぎ知って飛び来たる物なので、殆ど防ぎ尽くすことは出来ない。乗馬は大体倒されて、唯だ巖如郎から送られた荷牛のみと為ったので、結局は一同徒歩と為ったが、今の中に歩行に疲れては、肝腎な戦争の時に用に耐えられない恐れが有る。

 止むを得ず、日々の行程を減じ、大事を取って徐々に進む事とは為った。
地形山勢なども、今までに見た所とは異なって居ることが多かったが、一々記す事は難しい。進み進んで三月の八日には、既に此の国へ入り込んでから十二日目であるが、余りの無事に一行の心も稍や弛んだ。

 戦いを期して来たのに何の戦いにも出会無いのは、却って気抜けせられる者であるなどと呟くことも有るが、平洲と茂林とは軍人の眼を以て何か益々気遣わしい様子でも感知した様に、次第に無口と為り、唯だ考え込むのみであったが、やがて耐え兼ねた様に、彼の魔雲坐の所に行き密に、
 
「御身は敵が一方なら無い準備を為しつつ有る事に、気附いて居無いのか。」
と問うた。魔雲坐も実戦に慣れた身なので、同じ所に気が附いて居たと見え、容易ならない面持ちで、

 「アア此の国の人は戦争の法を知って居る。余は過日から御身等の制止に背き、出来る丈は敵国の食物を奪って、我が兵糧が尽きないようにしようと、夜な夜な密に手下を派し、分捕らせて居たが、随分大きい村にすら食物が少ない事に驚いていた。

 是れは必ず輪陀女王とやらが、吾等の来るのを知り、兵糧を乏しくさせる為め、総て都へ召し集めた者と知られる。余自らもこの様な手段で功を奏した経験がある。」
と云う。平洲は聞き終わって、

 「扨ては食物までも其の様に手回しが届いているのか。余は食物の多少は知らないが、此の数日前から、通り過ぎる所の村々に、老者幼者を遺したのみで、男女とも壮年の者は殆ど居ない事に気づいて居た。此の邊に至っては壮年の者は益々少ない。

 何さま戦争に耐える事が出来る男女は、一人に残らず都へ招集(めしあつ)められたと見える。食物も、それ等の壯者が都へ運んで行った者に違いない。」
 この様に云って念の為め、此の三人で近村に入り込み、検めて見ると、壯年血気の者は独りも居ない。残る老少でさえも敵に殺されるのを甘じる者の様に、人を見ても驚かない。

 敵の準備は益々以て行き届いている。彼等が大挙して、唯だ一戦にして此方を鏖殺(おうさつ)《皆殺し》しようとする計略であることは明らかである。芽蘭男爵の手紙の誡めも、ここに至って思い当たる。



次(第百二十七回)へ

a:194 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花