ningaikyou129
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。
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第百二十九回 私は芽蘭男爵です
この様な間に、先程から兵卒人夫等が掘って居た防備の濠は、不充分ながらも大方は出来上がり、掘り出した土塊は濠の此方に高く塁を築いた。敵である輪陀(リンダ)女王の兵も、この時まで勢揃いに忙しい者の様に、唯だ右往左往して落ち着かない体であったが、此方の塁から寺森医師が白い休戦の旗を押し立てて、歩み出ると見るや余り今まで例の無い事である為めに、何事かと怪しんで、暫(しば)しどの様に対処したら好いかを決める事が出来ないかの様に、動悸(どよ)めいた末ようやく足並を揃えた。
寺森が僅(わず)か十間《18m》ばかりに進んだ頃、異様な怒り励ます様な声が敵の陣中に起こり、引き続いて非常に疎(まば)らに矢を射初めた。一人の敵に向かって大勢の矢を費やすには及ばないとして、唯だ此方の挙動を試す丈の目的に違いない。
しかしながら距離は未だ遠い為に、矢は一筋も寺森の所には達しなかった。寺森は静かに敵の陣総体を眺め廻し、先ず輪陀女王の居る所を見つける事が出来たのか、是から只だ眼を陣の一か所にのみ注ぎ、脇目も振らずに又悠々と歩み初めた。
この様にして寺森が近づくに連れ、敵の矢は漸く密に成って行ったけれども、寺森の身には一丁の短銃を腰に着けているだけ。矢を防ぐための楯さえも無い。しかしながら彼れは、矢が飛んで来るのを知ら無い振りをして、同じく一方を見詰めたまま進むと、敵も寺森の寸鉄をさえ帯びて居ないのを見て、攻め立てるには及ばないと見たのか、寺森が漸く矢が届く邊(あたり)まで進んだ頃、陣の一部が再び動揺(どよめ)いて、一同は忽(たちま)ち矢を射る事を止めた。
寺森は矢が来ようが来まいがかまわず、更に同じ足取りで泰然《落ち着いて物事に驚かない様子》と二十間《36m》ほど進んで行くと、此の時、寺森が最初から眼を注いで居た邊(あたり)から、兵卒を押し分けて単身進み出る一人があった。
黒い野蛮人の間に青白いその顔は目立って見え、髭茫茫として赤く延びているのは、病み上がりの人かと見えたけれども、疑いも無くヨーロッパ人である。敵の中にヨーロッパの人が居るとは、芽蘭(ゲラン)男爵で無くて誰が居るだろう。
着物は幾年か着たままのようで、破れて襤褸(ぼろ)に同じだけれど、ヨーロッパの仕立てである。頭に戴く略帽子は之も幾歳を経たのか知れず、色さえ見分け難いけれど、旅行家の帽子である。此の人はその汚れた帽子を取って、寺森に向かい何やら制止する様に打ち振るのは、多分其所より近くへは進むなとの合図に違いない。
寺森はこの様に解して、歩を駐(とど)めると、その人は寺森の方を指して一直線に歩んで来た。近づくに従ってヨーロッパ人である事は、愈々(いよいよ)以て疑う事は出来なかった。やがて彼れは全く寺森の前に立ち、再び帽子を取って敬礼した末、感情を抑えられないような語調で、
「貴方は、貴方はー。」
と云い掛けるその言葉は全くフランス語である。何より先に言って好いだろうかと、暫(しば)し戸惑う様子であったが、やがて、
「イヤ貴方の旗にフランス語で、黒く休戦の一語が見えましたから、私はヤッとの事で女王に説き、兵卒の矢を止めさせて、無理に許しを得て出て来ました。」
と言いながらも熱心に寺森の顔を見詰めて、
「貴方は多分、私を探す為に千辛万苦して此の国へ入り込んだ、フランスの遠征隊員で有りましょう。」
寺森も尋ね尋ねた苦労の末、この様な状況で漸(ようや)く芽蘭男爵に逢ったかと思い、又男爵の憐れむべき姿を見ては、声を振るわせない様にしようとしても震えるのを押さえる事は出来なかった。
「ハイ貴方こそきっと吾々の尋ねて居る芽蘭男爵でしょう。」
「ハイ」
と云いつつ男爵は手を延ばして我知らず寺森の手を握り締め、
「私がその芽蘭男爵です。今ではフランスに居た時の影も有りませんけれど、ハイ全く芽蘭(ゲラン)です。シタガ貴方は、貴方のお名前はーー。生涯忘れられない大恩人の名を、ここで伺って置きましょう。」
「ナニ私は遠征の発起者で無いのですから、貴方の恩人では有りません。唯だ遠征隊に雇われて随行する医師です。寺森と云う者です。」
「シテ貴方を雇って来たその遠征隊の重(おも)成る人々は。」
と是からの男爵の言葉は、殆ど口を衝(つ)く様に湧いて出て来た。
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