巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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     第百三十四回 輪陀軍との戦い

 輪陀女王の指図で、左右に開く美人軍の囲みの中から、寺森医師は静かに歩み出る事が出来たが、思えば我が此の使いの目的の一も達した所が無かった。親しく芽蘭(ゲラン)男爵に逢った事と、面(まの)あたりに黒天女の美しい姿及び美人軍の有様を見た事は、聊(いささ)か平生の望みを満たす事が出来たとは云え、大事な目的は休戦に在る。又芽蘭男爵を救い出す事に在る。

 休戦の申し込みが届かずして、両軍の戦いは最早や眼前の事と為ったばかりか、芽蘭男爵の事でさえも、却って輪陀女王をして、益々厳重に男爵を取り扱かわせる元をこそ作ってしまった。少しも男爵救い出しに道を作る事は出来なかった。僅かに男爵が

 「美人軍等が戦争に夢中と為った隙を見て、妻の傍に逃げて行こう。」
と云った言葉を頼みとして、男爵が自ら逃げて来る事を待つ外は無い事に為った。特に此の軍(いくさ)は、到底勝つ見込みが無いので、男爵がたとえ逃げて来ても、唯一同と共に殺されるか、或いは再び捕虜と為るだけの運命なので、それや是やを思い合わせ、寺森は自分から進んで引き受けた我が働きの功の無いのを恥じ、又一同の身の成り行きを気遣って、殆ど引き返す力も無かった。

 最初に勇ましく打ち振って進んだ休戦の旗を、今は巻き収めて杖の様に突き、力無く無く此方の陣へ帰り着いた。
 ここには平洲と茂林とが、既に休戦の交渉が届かなかったのを知って、充分に戦いの用意を整えて居た。その大体の備えを記せば、魔雲坐王の兵を中軍と為し、名澤の兵を右翼と為し、別に魔雲坐の兵の中から精兵を抜いて、ヨーロッパの兵法によって訓練した新隊を左翼と為して、平洲自ら之を率い、茂林は中軍の号令役として魔雲坐と並んで進む事とは為った。

 又芽蘭夫人は帆浦女と共に、左翼になる新隊の後に少しばかりの林がある所を居所と為し、林の蔭に通辯亜利、及び阿馬(オマー)の二人に守護せられ、各々六連発の短銃(ピストル)を手にし、最後の時には敵を射るよりも自ら我が身を射て、敵の辱めを受けないと言って死ぬ用意をして居た。

 此の中で帆浦女は、敵に美人軍があるからには、我が身も女の兵と為り、共々に戦おうと云い、甲斐甲斐しく扮装したのは、きっと美人軍の姿が美しいのを聞き、我が姿も実に野蛮の女に劣るものかとの心で、美人軍と姿を競う積りなのを、芽蘭夫人は之を許さず、寧ろ此所に居て手負いの介抱を為すのが一番だと云って制したので、徒にその鐵火箸(かなひばし)の様な姿を右左に折り曲げて残念がるばかりであった。

 この一群れにも加わらず、又戦線にも出ないのは、唯だ寺森医師と下僕與助である。寺森は軍医長として陣の最後部に場所を構え、十余の人足を引き連れて職を守って居る。
 與助はどうせ数限りない敵兵に、勝つ見込みが無いので、戦って死ぬより、戦わずして死ぬのに越した事は無いと、独り悟りを開いた様な事を言って居るが、実は戦わずして生きる工夫を案じ、陣の後にある山の洞穴に一匹の牛を連れて隠れ入り、逃げる時の乗り物とも為し、食尽きた時の兵糧とも為す考えで有るのは、彼に取っては最上の知恵であるに違いない。

 百般の備えが此の様に整ったので、平洲、茂林は、魔雲坐王と共に暫しの間軍議を凝らし、今朝から濠を掘って、その手前に築いた塁に立て籠もって敵を防ぐべきか、将たまた進み出て攻勢を取るべきかを相談していると、早や敵軍は鬨の声を揚げて進んで来る有様であった。

 之を防ぐには之を攻めるに在りと考え、唯だ打ち負けて如何とも致し難い場合に、ここに退いて敵を遮る事にしようと、右軍左軍は遠くその後ろに出て、中軍の危うい場合を見て、応援する事とした。

 勿論左右の軍は、此の国の者等が夢にさえも見た事の無い、フランス製の銃器を携え、一人好く敵の数十人に当たる程の精兵なので、漫(みだり)りに火薬を費やしたり、或いは力を疲れさすなどの事を為すべきでは無い。敵の兵数からその力の強弱まで、じっくりと見定めた上で、初めて動く事を打ち合わせた。

 既に中軍が原の中ほどまで達した頃、敵方の中軍も進んで来た。双方射頃の場所とは為った。彼等は美人軍では無い。通例の男子軍である。美人軍は依然として軍神石の下に在る。察するに男子軍が、美人軍の眼前で、働き振りを試験せられる者の様で、試験の結果、到底勝利の見込みが無い事に到ったなら、初めて美人軍が出て来る者のようだ。

 即ち彼方の美人軍は此方の左右翼と同様で、最後の勝利を制する為め、静かに控えて見物しているのだ。
 野蛮人の戦いは極めて乱雑な者だ。双方ともに野蛮中の最精兵なので、一種の規律を備え、侵し難い所がある。

 やがて彼れらが先ず声を放ち、声と共に弓を引き射出すと、その早い事は連発の銃を発するにも等しく、矢は密集して雨の様に注いで来る。察するに彼れらは唯だ一挙に勝を得る心で有るに違いない。此方も之に応じたが、茂林の注意で、初めは無駄には射させなかった。

 唯だ疎(まば)らに発射して、その距離を測らせ、漸く確かな狙いが定まったのを見計らって、更に急射の令を下すと、彼方の矢の多くは此方の頭上を飛び越えて去るのに引き替え、此方は殆ど無駄な矢は無く、一矢に必ず一人を斃す程の有様だったので、敵の前線は少しの間に潰れた。

 しかしながらその背後には、更に幾隊もの備えが有る。一隊が斃(たお)れれば、其の死骸を踏み越えて、又一隊が現れて来た。その入れ代わりの巧みな事は驚く許(ばかり)である。凡そ四十分程で、敵は隊を入れ代わること五回に及び、更に尽きる所を知らない。

 此方の方も未だ疲れた色は無いけれど、敵の隊の数は此の上更に幾回の入れ代わりに堪える事が出来るのだろうと、茂林は凡その数を算するに、今朝三方の山の峰に、蟻の集う様に見えた彼等の兵は、山の上から次第、次第に降りて来て、その中軍の背後へ背後へと集まりつつ有る。此の上十回や二十回入れ代わっても、到底尽きるとは思われない。



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