巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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      第百三十五回 魔雲坐王の負傷

 三方の山から降り来る敵の兵、続々として何時果てるとも思われない。而(しか)もその規律の正しい事は殆ど文明流の精兵とも云える程で、一軍矢が尽きれば退いて背後の兵と代わり、背後の兵が前に出て前線に立ち、戦闘力が減ずれば又背後の新兵と入代わる。

 その交代の様は、迫かず騒がず、宛(あたか)も悠々と機械でも替える様である。流石に大国の兵と云える。この様な兵は到底勝たなければ止まらない者である。
 此方の兵もまだ少しも疲れた様子は無く、勇気益々振っている有様である。

 しかしながら、茂林は大将の眼を以て、到底敗北に終わるのを見て取った。到底敗北するにもせよ、如何様に敗北したら好いだろうか。先ず白人の甚だ侮り難きを示し、後々まで恐れさせる様に敗北しなければならない。或いは崩れて列を紊(みだ)し、或いは逃げて後を見せ、真に敗軍の敗軍たる醜い様を現す様が有っては、敗北のうえにも後々まで長く笑われ侮られることに成る。

 この様な敗北は我が望む敗北では無い。我が望みは勇ましく花々しい敗北に在る。花々しい敗北は愈々(いよいよ)力が続か無く成った時、咄嗟に起き上がって突撃し、敵の足許で死するに在る。幾千と数知れずして而も彼等の様に落ち着いた敵の中へ、突き進めば鏖(皆殺)しにされる事が確実なので、逃げても助からない場合だから、此の外に勇士の死様は無い。

 幸いに突撃の方などは、その外の掛引と共に、魔雲坐の兵に授け、充分訓練して置いたので、敵を破る為に教えた事が、自ら討ち死にする為に用いられる事は残念であるが、運命ここに至っては仕方が無いと、全く心を決し、最後の場合を待つ中にも、又思うに我から突撃しないう中に、敵から却って突撃して来たならば如何する。

 衆を以て寡に向かうのは、唯だ一潰(つぶ)しに我軍を圧潰(おしつぶ)す事と為るだろう。今こそ我が軍の足並が一糸も紊(み)だれず、力の底は測る事が出来ない有様なので、敵も軽挙を誡(いまし)めて、敢えて進んで来ないのだ。

 我が軍の戦闘力に聊(いささか)でも欠ける所が出て来たならば、敵は必ず雪崩れの様に我が軍を圧迫して来るに違いない。この様に為っては我が思う所も画餅である。敵の掛け引きは文明兵の様に巧みなのを見れば、此方(こちら)の力を測り、接戦を以て圧迫しようとする位の事は必ず知っているだろう。

 大切なのは敵に先を越されないようにして、我から先を制するに在る。
 この様に心は定めたけれど、今日初めての戦いに一日をも支えずに、総軍討ち死にして尽きる事は、余りと云えば残念である、到底の運命は敗北に在りとするも、切めて一度は勝利を得、敵を追い散らす位の手柄は現わし度い。

 この様な手柄は如何にして現したら好いだろうか。何しろ数限り無い敵なので、之を乱すには何とかして敵の中に恐慌を起こさせ、その整っている号令を妨げて、足並を撹擾(かきみだ)し、留め度も無く動揺させる外は無い。

 之を為すには如何にしたら好いだろうか。如何したら敵にその様な恐れを起こさせる事ができるだろうかと、空しく心を絞りつつ、若し魔雲坐王に問うたら、彼れは又実戦に慣れている丈に、意外な発想が有るかも知れないト、茂林は少しづつ彼れの傍に身を寄せ、終に彼れに接したので、低い声で、

 「御身の勝つ見込みは如何に。」
 「見よ、我が兵の死んだ者は未だ三十を超えては居ないのに、我が兵の矢は無駄な矢が少なく、敵は既に我が十倍も死んだ。」
と云う。成る程死人の数は敵の方が我に十倍している。魔雲坐は又一矢を射終わって、

 「大抵の敵ならば、最早や逃げる時分なのに、数が多いだけに未だ逃げない。しかし余は遂には勝つ積りである。今少しの間を見よ。」
と云う。その勇気は天晴ではあるが、彼れは野蛮人だけに大勢を見て取る事が出来ないと茂林は心中で評したが、彼れは又茂林の様子を察し、

 「心配は無い、心配は無い、我が軍は背後に敵の矢を拾う役目の者が在る。拾って又用いるので、矢の尽きる恐れは無い。矢が若し尽きれば敵中に飛び入って、剣の闘いより引き続き、歯の戦いと為る。歯の戦いと為れば、我が部下の兵に優る者が無い事は、御身既に土門陀(ドモンダ)の戦争で知っているでは無いか。」

と云う。さては彼れ、人喰い人種の本性を現し、終に歯と歯を以て噛み合う迄に戦う所存と見える。離れた弓矢の戦に続くに、接した剣の軍(たたかい)を以てし、又之に次いで、入り乱れた歯の闘いを以てす。魔雲坐の部下が強兵として門鳩(モンパト)地方の付近に恐れられるのも、之に在るのだと、茂林は聊(いささ)か感心しない訳には行かなかった。

 感心はしたが、大勢(たいせい)が敗北に在る事は、到底疑いも無い所なので、更に一語魔雲坐に語ろうとすると、此の時魔雲坐は叫(きゅう)と一声、苦痛の声を発し、茂林の足許に倒れた。見れば彼れの股(もも)に敵の非常に太い矢が、肉を貫くほど深く立った。

 歯を以てまで闘おうと云う魔雲坐が、未だ剣の戦いにも至らずして、ここに倒れるとは、何と云う不幸だろう。今迄ならば一人の傷つく毎に、
 「オー、アイ」
の悲鳴を発して弔(とむら)う事が門鳩軍の仕来りであったが、この様な馬鹿馬鹿しい事は、以前から茂林が禁じて居た所なので、誰一人悲鳴を発しない。
 
 魔雲坐自身も深手ではあるが、灸所では無いので、心はまだ確かにして、起き上がろうと藻掻くので、茂林は手早く引き起こし、之を一卒の肩に掛けさせ、直ちに彼の塁の背後にある寺森医師の許へ送らせた。是等の事は、実に咄嗟の間に運び、味方の中にすら知らない者がある程であったが、王の負傷は部下の為には、恐るべき大打撃である。

 今まで整って居た足並も、忽ち頽(くず)れ、留める手段(手だて)も無く、背後へ背後へと不規則に退くのみにて、悲しい事に茂林が最後にはと心に期して居た突撃も行う事が出来ない。敵は早くも此の様を見、輪陀女王から何やら号令の声が掛かったのと同時に、一同が鯨波(とき)の声を挙げた。

 忽ちその密集した軍を開き、三方から此方を取り囲もうとする様に、翼を張って、前から、右から、左から、驀然(まっしぐら)に此の方の軍を圧して進んで来た。その様は只だ海嘯(つなみ)が倒れ掛るかと疑われる許りであった。



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