巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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    第百三十六回 現れ出た芽蘭男爵

 敵は海嘯(つなみ)が倒れて来た様な勢いを以て、三方から此方(こなた)を取り囲もうとする。此方は退き敵は追う。アワヤ此方の運命は此の所に尽きるに違いないと思われたが、今まで名澤と平洲との厳重な号令の下に、鎮まり返って戦いの様子を注視して居た此方の左右翼の精兵は、今こそ得意の雷神を使うべき時と見て、逃げ足立った味方の近くにまで進み出で、左右から一斉に、敵を狙って射撃すると、今迄銃声を聞いた事が無い敵軍の耳へは、殆ど百雷が一時に轟いた様に聞こえのに違いない。

 全軍忽(たちま)ち気を失い、その何事であるかを理解する事は出来ない様に進みを駐(とど)めて、四辺(あたり)を見廻し始めたが、見廻す目先に算を乱して倒れるのは、今まで共に進んだ者共の死骸である。数えはしないが凡そ百以上は有るのに違いない。

 二百人ばかりの一斉射撃が、百以上の敵を倒せる事は、此方に取っても思うに勝る出来栄えなので、敵は尚更ら驚いたのに違いなく、何の声か、この様に凄まじい響きを発し、何の力がこの様に一時に多人数を倒したのだろうかと、暫し呆気に取られた有様を見て取って、此方は更に弾丸を籠め直し、再び一号令の元に射撃すると、此の度も敵を倒す事は初めに増しこそすれ、減りはしなかった。

 敵は百や二百の死骸を見て、日頃ならば物の数とも思わないのみか、却って益々勇み、危うきも苦しきも全く打ち忘れて、戦うに至る残忍な兵であることは、曾て巖如郎王からも聞いた所であるが、今は彼等は、死傷を恐れるよりも、凄まじい響きを恐れ、又この様な響きを発する逞しい武器を恐れ、最早や踏み留まる事は出来ず、又退く海嘯(つなみ)の様に逃げ初めた。

 聞く所に由れば、彼等は敵を前に控えて、逃げ出だした例しは無く、唯だ自ら神の怒りに触れたと思う時のみ逃げ去るといわれる。そうすれば彼等は銃声を人間業とは思わず、全く神が怒って叱る声に違いないと思ったのに違いない。

 彼方(あちら)が此の様に逃げ足が立ったと見るや、勝敗の勢いは全く転じ、今し方大将魔雲坐が創(きず)の為運び去られるのを見て、気が挫けた門鳩(モンパト)兵は全く勇気を回復し、大将が見え無いのには気も留めず、喉も破れるかと思われる程の鬨(とき)を挙げ、一散に敵を追って行こうとする。

 追って行って彼の数限り無い群れの中に、落ちれば一揉みに揉み潰される事が必定なので、茂林は漸く之を制し、敵が再び盛り返して来るのを思って、此方の陣形を正しくし、更に左右翼の精兵を行動に最も都合のよい位置に立たせ、敵の様子を見ると、今逃げて行った者共が不甲斐無いのを怒り、之を堰き留め様とする様に、一隊の美人軍が進み出て之を遮えぎった。

 遮られても彼等は神の怒りに触れたと思う怖気に、踏み留まる事が出来なかった。そのまま美人軍の中へ逃げ込むと、針の様な刺(とげ)を備える美人軍の腕(かいな)は、一人一人に彼等を抱き、只一〆に彼等を刺し殺し、一人の生き残る者も居ないようにした。

 是で見ると、此の国の軍律は戦って逃げ返る者を容赦なく刺し殺すと見えた。此の国の兵の強いのも偶然では無い。進んで勝算が無い場合でも、退けば味方の者に刺殺されるので、死ぬまで戦う一方である。それに付けても又美人軍の恐ろしい事は充分に明らかである。

 彼等の腕の刺々(とげとげ)は、唯だ人に組み付く丈で直ちに其の人を刺し殺すに足る。たとえ我に如何程の武器あが有っても、接戦しては到底勝てる見込みは無い。
 逃げた兵は悉く刺殺されるのだ。咄嗟の間に美人軍は山から降れる男子軍に号令を発すると、先の一隊の敗北を面前(まのあた)り見た事にも懲りず、新手は新手丈の勇を以て、猛(たけ)り猛って又大浪の様に突撃して来た。我が兵は之れをも射撃を以て迎えると、其の結果は前の様に両三回にして殆ど敵の隊の七、八分を射倒すと、残る二、三分の者は又逃げ去って美人軍に刺殺された。

 刺し殺しては新手を向け、新手が敗れて逃げ去れば、又刺し殺して新手を向ける。その号令と掛け引きの早い事は喩(たと)えるに物も無く、僅か一時間にも足りない間に、六、七回に及んだので、益々出て益々敗れるばかりなので、同一の手段を幾度繰り返えしても、同じ目に遭うだけと見て、ここを男子軍の最後として、今迄の一隊に十倍する程の数を集め、非常に広く長蛇が横たわる様に開き展(延)ばし、到底一時には射尽くされない形を以て進んで来た。

 此方(こなた)もここに至っては復た同一の手段を以て応ずることが出来ない。右を射れば左が進み、中を射れば左右が進み、遂には如何ともする事が出来ない事に成るのは必定なので、左右翼を一線にして、乱射して之を防ぎ、更に中軍の弓を持つ兵をも、矢が続く丈射出させると、暫(しば)しの間は、どちらに決すかも計り難く、此方の精兵も非常に疲労し、殆ど矢も弾も残り少なくなって来た。

 先に戦死が余り早過ぎる事を惜しんだ茂林も、最早や是を最後として討ち死にしても惜しくはない時と思ったか、声を限りに突撃の号令を発し、三隊同時に叫んで猛進すると、敵も耐えに耐えて戦った果てなので、此の勢いを見て支える事が出来ず、又も総頽(崩)れと為り、踏み重なって逃げ出した。

 死を決して進んだ此方に取っては、是れは意外な幸いなので、更にもう一度戦った後に死のうと、茂林は留まるように号令を発すると、左右の精兵は止まったが、門鳩(モンパト)兵の一部は、勝利と心得て号令に従がわず、取り分け駆け足が早い彼等が事なので、直ちに敵の一部に追い付いて入り乱れた混戦と為り、先に魔雲坐が言った、真に歯と歯の戦いを開き、或いは打ち、或いは叫び双方ともに血に塗れて組み合う様、目も当てられないほど無惨であった。

 しかしながら敵の大半は逃げ果せて、美人軍に刺殺される者も有り、人数が多い為め、美人軍の手に余って無事に彼方なる軍人石の許まで逃げ着いた者も少なくなかった。この様に為っても輪陀女王と其の部下である美人軍とは少しも怯(ひる)む気色は無い。

 最早や男子軍の頼むに足り無いのを見届けたので、愈々美人軍が飛鳥の様な早業を現わして、その勇を欲しいままにすべき時であると思った様に、五千の美人軍は輪陀女王の指揮の下に、直ちに陣の形を整えた。今は愈々茂林を初め此方の軍の討ち死にをすべき時とはなった。

 例も聞かない美人の針に刺されて死するは、後まで話の種にも残るに違いないと、茂林も平洲も言わず語らず、心の底で非常に異様に満足し、落ち着いて最後の時を待つと、不思議や愈々進み出ようとする美人軍の一方が俄に動揺し、内破(わ)揉めが生じたかと疑われる程であったが、やがて其所を押し分けて、色の青白い芽蘭男爵が現われ出た。



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