巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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       第百四十八回 男爵に恋している輪陀女王

 この様にして此の一夜の中に平洲、茂林は本目紳士の助力をも得て、一行に指図し、全て此の土地引き上げの用意を完了した。芽蘭(ゲラン)男爵及び魔雲坐王の様な負傷者は、担ぎ運び輿(かご)の様なものを作って之に載せ、看病人としては芽蘭夫人付き切りて、帆浦女が之を助け、医員としては鳥尾医学士が付き切って、寺森医師が之を助けるなど、夫々の受け持ちまで非常に都合好く定まった。

 この様な間にも、深く憐れむべきは此の遊林台の国である。国中の精兵は多く殺され、生き残る者も軍神石の破裂に怖恐(おじおそ)れ、逃げ散って再び纏(まと)まる事は難しい。女王は捕らわれ、王宮は焼かれ、付近の村々も門鳩(モンパト)兵の乱暴を受け、暁天《夜明けの空》に至るまで殆ど叫喚《大声でわめき叫ぶこと》の声がを絶えなかった。

 幾百年来、アフリカ第一等の強国であった女護の洲(しま)も今は亡国の時が来た者と知られる。しかしながら是よりも更に憐れむべきは、女王輪陀である。昨日まで此の大国に君臨し、思う事意の様にならない事は無かったのが、今は家毀(こ)わされ、都焼かれ、自分は敵の捕囚と為って、まさかの時に身を守るべき刺の鎧まで剝ぎ取られた。

 此の悲しい有様に、心も千々に砕けた様に夜一夜を眠りもせず、遠く此方の村彼方の家の焼き尽くされる火焔(ほのほ)を睨み、又或時は非常に恨めしそうに芽蘭男爵及び芽蘭夫人の幕営を眺めなどし、思いに暮れる有様で明かして居たが、翌朝平洲、茂林等は此の女王を如何に処分したら良いだろうとの相談とは為った。

 茂林は此の女王を解き放っては、生き残って居る美人軍を招集し、復讐の意を以て一行を追い掛けて攻めて来る恐れが有るので、一思いに銃殺すべしと唱え、平洲はそれは駄目だ。最早や美人軍も其の他の軍も、昨日見た通りの有様なので、容易に再び招集される恐れは無い。

 兎に角一国の女王とも云うべき身なので、銃殺などと云う惨刑に処するべきでは無い。最早や何の害をも発する事が出来ない憐れむべき一婦人だから、このまま放って遣るべきだと云ったが、初めから此の黒天女に、浅からぬ同情を表わしていた寺森医師は、之を人足に守らせてパリへまでも連れ帰ろうと云う。

 議論は容易に決しなかったので、更に本目紳士の意見を聞くと、此の人は何事をも軽く見て、交際の上から判断する性質なので、寺森に賛成し、此の婦人を連れて帰ったらパリの社交界に、又と無い話の種を與えるに違いないと言った。平洲としても、茂林の説の様に無惨に銃殺するよりも、まだ此の方が慈悲の道に叶って居ると思うので、寧ろ是れに賛成しようかと心が少し傾いた折しも、寺森は最後の理由を提出し、

 「僕が此の女王を連れ帰ろうと云うのは、決して慰みなどの為では無い。僕は数か月以前から云って居る通り、此の国の女を以て、皮膚研究の発明を完成する積りだから、君等は何うか僕に研究の材料を与えると思って、僕の意に賛成して呉れ給え。僕の大発明は今一歩で完成すると云う所まで進んで居るから。」

と切に請うて止まなかったので、発明と云う一語に対し平洲も茂林も、
 「それならば君の意に任せよう。唯だ君自ら、此の女王の為に生ずる一切の責任を引き受け、他へ迷惑を掛けない様に監督し給え。」
と云い、遂に輪陀女王を捕虜のまま連れ帰る事とはなった。

 是で愈々出発と事が定まり、一行の人員を点検すると、人足にも多少の不足は有ったが、差し支える事は無い。又魔雲坐の部下兵も昨夜敵の村々に進入した者までも、多くは帰って来ていて、千五百人ほどと為っていた。国を出る時には三千人の上に出ていたが、昨日の戦いで半数ほどを失った者と見える。しかしながら此の一行の中では、此の兵が最も強い者達だ。

 是だけの部下さえ有れば、まだ魔雲坐の手中に一行の生命を握られて居る様な者なので、魔雲坐も満足した者か、数の減じた事を惜しむ様子も無い。魔雲坐が満足する丈、一行に取っては気味悪い事で、他日魔雲坐と分かれる時、何か困難が無くては止まないだろうと、平洲、茂林とも聊(いささ)か気遣う所はあるが、その気遣いを人には知らさず、唯心の中で之に応ずべき工夫を探るのみ。

 引き上げの第一歩は、昨日鳥尾と本目とが降りて来た、彼の崖に上る事に在る。崖にはまだ幾筋もの縄梯子が垂れた儘(まま)なので、先づ人足を上らせて、更に幾十筋の縄梯子を掛け足させて、負傷者の乗って居る輿(かご)なども、縄で上へ引き揚げさせたが、一千数百の人数なので、殆ど半日を費やして、漸く上り尽くした。

 唯だ輪陀女王だけは、なかなか此の崖へは上らないだろうと思われたが、そうでは無くて、負傷者の輿(かご)が引き揚げられたと見るや、宛も此の輿(かご)に離れまいと決心した様に、自ら縄を手繰(たぐ)って上った。

 多年美人軍の大将として身を鍛えた者なれば、この様な事には非常に巧みで、誰よりも容易なので茂林は此の様を見、
 「若し美人軍が再挙して吾々を追う気に成れば、一時間を経ずして数千人が此の崖を上り尽くすだろう。」
と云うと、寺森は失念(ぬか)らず、

 「所が崖の上から縄梯子を取り上げて置けば、到底下から縄梯子を投げ掛ける事は出来ない。たとえ美人軍に再挙の力が有ると仮定しても、是だけは安心な者サ。」
と云った。真に此の言葉の通りなので、縄梯子は総て取り上げ、再び下から攀(よじ)登る事が全く出来ない事を見届けた上、同勢彼の鳥尾、本目が通って来た峡道から、山を分けて進み始めた。

 進んで日没に近い頃、漸く鳥尾、本目等が初めて遊林台国の山の上の、蟻の様に兵が集うのを望み見た、彼の坂の上には出たが、此の時までも輪陀女王は、少しも負傷者の輿(かご)から目を離さず、亡国に瀕したる己が故郷の方は見向きもせず、唯だ輿を見失なうまいとのみ勉める様子なので、平洲も、茂林も穏やかでは無い事に思い、寺森に向かって、

 輪陀女王は心に復讐の意を蔵(隠)し、芽蘭男爵を狙って居る事は明らかので、此の上更に連れて行く事は出来ない。ここで幾日分かの兵糧を首に掛けて、追い返そう。そうすれば何とかして自分の王国へ帰って行くに違いない。」
と説くと、寺森は承知せず、

 「イヤ女王が男爵の輿(かご)を狙うのは、決して復讐などと云う有害な目的では無い。僕は昨日、初めて男爵と此の女王とに逢った時、窃(密)かに様子を考えたが、女王は深く男爵を思い染め、早く男爵に病気を直させて、自分の夫に仕ようと云う一心で、今まで男爵を捕虜にして置いたのだ。
 今でさえも男爵の輿(かご)を狙うのは、全く愛の一念で、自ら輿(籠)から目を離す事が出来ないので有る。」
と言争った。平洲は益々驚いて、

 「女王が其の様な心なら猶更(なおさら)連れて行く事は出来ない。断然此処で放ち給え」
 「それは又何う云う譯で。」
 「エエ君にも似合わない事を問う。其の様な心を以て此の女王が男爵の輿(かご)を見ると云う事が、若し芽蘭夫人に分かったなら何とする。久々で廻り逢った夫婦の真情に、若しそれが為に一点隔意の端でも開かせる様になれば、君は一同の尊敬する芽蘭夫人に対し、言い訳の言葉が有るまい。」

 此の一語には寺森も抵抗することは出来ず、直ちに乾し肉、其の他数日の糧に充てるべき物を袋に入れて女王の首に掛け、通訳の力をも借り、更に手真似をも交えて、是から立ち去れとの意を、及ぶだけ親切に合点させ、ここに女王を捨てて置いて進み去ったが、女王はその後に、故郷の方へは帰ろうとはせず、木の根に腰を掛け、山に入る日が我が顔を照らすにも構わず、只茫然として輿(かご)の行方をのみ見送った。心の中には何事を思っているのだろう。



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