巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

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人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

アドルフ・ペローの「黒きビーナス」の訳です。

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     第百五十二回 旅の終わり

 寝ていた姿を突き通した血刀を、輪陀女王は抜き取りもせず、そのままにして彼の天幕(テント)から出て来た。是れで女王は大願の一つを成就する事が出来たと云う様に、今迄の悲しそうな顔色が、幾分か晴れ渡って見えた。

 翌朝は一行の人々、今日こそゴンドコロに無事に到着し、久し振りで屋根ある家の中に休まれると思うと、気も自ずから引き立って、何時もより早く起き揃い、思い思いに出立の用意を初めたが、輪陀女王は昨夜行った我が仕業の後始末を見届けようとの心で、彼の負傷者の天幕から纔(わず)かばかり離れた所に立ち、殆ど瞬瞼(まばたき)もしない程に眺めつつ有る。眺める中にも心地好さそうな色は見える。

 この様な折りしも、天幕の中から、色青ざめた芽蘭夫人の顔が現れ出た。色こそ青ざめては居るが、その身には何の傷も無い。さては輪陀の刺した寝姿は、夫人では無かったと見える。夫人は唯だその無惨な死様を見て、驚いて顔色を変え、人を呼ぼうとして出て来たものと見える。

 待ち設けた輪陀女王は夫人の無事な顔を見るやいなや、殺す事が出来たと思って居た我が見込みの、全く外れたことを知り、驚いて絶望に自ら支える事が出来ない様子で、人の耳を劈(つんざ)く程の、鋭い叫び声を発して、狂ったように走り去った。

 人々は此の声に、何事が起きたかと集い来て見ると、此の時又も天幕の中で魂消(たまき)る様に叫び立てるのは、看病の補助者、帆浦女である。帆浦女は
 「アレ殺されて居ます。殺されました。殺されました。」
と口続けに、宛(あたか)も自分が殺されたかの様に叫びながら、芽蘭夫人の立って居る所へ轉(ころが)って来た。

 殺されたとは誰の事だろう。若しや芽蘭男爵では無いかと、平洲も、茂林も天幕(テント)の中に馳せて入ると、傷(いた)ましいことに、数日来杖に頼って散歩する事が出来るまでに回復した、魔雲坐王が料理包丁で咽喉を刺され、苦(あっ)と叫ぶ暇も無く、顔を顰(ゆが)める暇も無く、眠ったままの姿で死んで居る。

 輪陀女王が芽蘭夫人を刺そうとして、過って魔雲坐王を刺した事は問わずして明らかである。
 魔雲坐の死憫(あわ)れむべしとは雖も、又思えば、結局は一同に取って幸いである。彼れに如何にして分かれたら好いだろうとは、一行が空しく頭を悩まして居て、好い思案も浮かばないで居た事なので、輪陀女王の手を以て、此の厄を払う事が出来たとは、殆ど天の配剤とも云うべき出来事だった。

 しかしながら芽蘭夫人は、我が身の為に魔雲坐が一国の王である身を以って、其の国を迷い出て、千辛万苦を重ねた末、この様な異境の鬼と為った事を思うと、憐れみの念に堪えない。行を止めて厚くその遺骸を葬らせ、ナイル河から程遠くなく、樹青く風涼しい所に石碑の様な石を建て、更にその遺髪を切って、彼の部下の兵士に與え、本国へ護送して帰らせる事とした。

 部下の兵士も力と頼む国王を失った為め、野蛮人にも似つかわしく無く打ち萎(しお)れ、また抵抗する気力も無く、唯だ一行の命のままに従うのは、一つはこの様な旅行で、一行に反(そむ)いては、後にも先にも、行くべき道さえも知る事が出来ない為でも有るだろう。

 魔雲坐を葬った翌日、ゴンドコロに着いたので、ここで魔雲坐の部下へは充分の食糧を與え、別に案内者をまで雇って附し、その本国へ帰らせた。独り輪陀女王は、夫人を殺す事が出来なかった失望に、その場限りどこかへ逃げ去って、その後は姿も見えなかった。
 河の岸か森中で飢え死にでもした者に違いないと平洲、茂林は評し合った。

 ゴンドコロで船を雇い、是れからナイルの河に浮かんで帰って行くと、流れは穏やかにして河風も涼しかったので、今迄の辛苦に比べて、物見遊山にも優る心地がした。この様にして早や三日を過ごした頃、船の後から浮つ沈みつ流れ来る一物があった。

 良く見れば輪陀女王の死骸だったので、さては絶望の余り、ナイルの河に身を投げて、死んだ者と分かったので、死骸と為ってまで恋しい男爵の後を追って来たかと思うと、一同憐れを催おしたが、中でも芽蘭夫人は之を此のまま流れに任せて置くべきでは無いと云い、水夫をして拾い上げさせ、之をも岸の上に葬むらせた。

 此の後は何事も無く、河の水は穏やかに船を送り、景又景を眺めて下ると、芽蘭男爵も全く健康の人に復し、一同無事にエジプトに着き、エジプトから又船で、無事に本国に帰る事が出来た。
 本国では之を聞く人々の驚きと、歓迎の盛んな事は管々しく記すまでも無い。

 此の一行に従って行った與助も、帆浦女も、身に余る程の賃金を得て、各々再び人に雇われる必要も無い身と為り、帆浦女は英国に帰り、與助はパリで永住の家を求めて、何不足無い小商いの主人とは為った。

 寺森医師の方も、茂林に対する勝負の負債は全く消え、外に芽蘭夫人から数多の報酬を得、更にアフリカを旅して来た外科医者として、鳥尾医学士と同じく名を挙げたので、昔日の怠惰医者も、非常に名の知れた流行医者と為り、職業の忙しさに連れて、勝負事の持病も癒え、到る処に尊敬せられる幸福の身とは成った。

 平洲、茂林、鳥尾の三学士は幾年もの辛苦は全く水の泡と為ったが、永の旅で、三人は殆ど兄弟より親しくなったので、三人ともたとえ芽蘭夫人が元の通り、自由の身であったとしても、他の二人を推し退けて、己れ一人勝利に誇らんなどと云う心は全く消えて居た。

 取り分け芽蘭夫人に対しても、兄弟の様な間と為り、唯だ夫人が夫男爵と新婚の人の様に、親しくするのを見て満足するだけだった。若し夫人が三人中の一人に落ちたりしたならば、他の二人は発狂するほどに、絶望するところだろうが、本来の夫に帰し、三人とも慕うべきでは無い人を慕ったことが分かっては、却って自分が勝つ事が出来なかった事を恨むより、負けなかった幸福を喜び、八方落ちなく落着した事を喜び合うばかりだった。

 まして三人が之が為に得た名誉は、その労を償って余り有り、三人ともに芽蘭(ゲラン)男爵と共に、地学協会の最も名誉ある会員と為り、今まで
 「未詳の地」
として、名さえ記されて居なかったアフリカの内地の一部分が、土門陀(ドモンダ)、麻列峨(マレツガ)、遊林台(ユウリンダイ)などと、此の時から地図の表に書き入れられて、世界に配布せられた。

 又太子(アルバート)湖と遊林台の間にある遙青山の有様、及びナイルの水源は太子(アルバート)湖の東部に出る事なども、三人及び本目紳士の為に分かったので、地図が無くならない限りは、此の人々の名は消えないだろう。
 是れは実に又と得る事が出来ない男子の大名誉では無いだろうか。
 
 芽蘭夫人は曾(かつ)て、夫男爵に逢う時までは、その心に三人中の鳥尾医学士に傾こうとするのを、制する事が出来ない事もあったが、夫の憐れな様を見、且つは黒女にもせよ、一国の女王である輪陀が、白人よりも更に美しい姿を以て、自分と芽蘭男爵の愛を、競争しようとする地位に立って居るのを見てからは、専心唯だ昔の愛に立ち返り、

 又男爵が九死を冒して輪陀を捨て、我が身の方に脱して来た様子などを思っては、最愛(いとお)しさの情、益々募り来るばかりだった。鳥尾にも其の他にも心の動くべき余地は無い。

 此の後一同落ち合った席で、寺森医師からアフリカ遠征の功は何人を第一とするやと尋ねられたのに対し、夫人は軍神石を破壊して、一同を助けた本目紳士の手柄を第一等、平洲茂林は優劣無く第二等、鳥尾医学士は功稍々(やや)劣っては居るが、医師の職業を以て寺森医師と共に、私と私の夫を助けて呉れた事は、同じく第二等の中に入るべしと答えたと云う。又以て夫人の心の少しも偏頗(かたよ)って居ない事を知るべし。

 夫人の心は、これ程までに公明なので、夫婦の間は勿論、何人との間にも更に苦情などの起こる事は無かった。
 程無く平洲も、茂林も鳥尾、寺森も、夫々良縁を得て非常に目出度く世を送ったと云う事だ。

 完



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