巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou16

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.4.28


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      第十六回 帆浦女の手紙(二)

 帆浦女の手紙の続き。
 「三学士が一様に私を恋慕いますのは、満更憎くもございませんが、私は唯だ、どなたにも嫉妬の念を起こさせない様にと、今のところは公平に遇(あし)らって居ります。それはさて置き、一行がパリを立ったのは、十四日の夕の汽車でしたが、間も無く夜に入り、一同汽車の中で眠る用意を致し、

 私も成るべく寐姿を美しくしようと工夫致しましたが、家の中と違い、両の脚(足)が邪魔と為り、貸し切り少人数の室とは云え、横へ出せば横に居る人に閂(つか)へ、前へ延ばせば前に居る芽蘭夫人の床下へ突張る有様でしたので、身を優(しな)やかに引き延ばすことが出来難く、已(や)むを得ず折縮めて何とか納めていました。唯だ早く広々とした海に出て、甲板の上を自由自在に歩むことが出来る時が来ればと、そればかりを待ち兼ねております。

 この様な窮屈な思いをして居ますので、充分に眠ることも出来ず、輾(きし)る車輪の音などを数えて居ますうち、室内に異様な物音が聞こえますので、眠った振りをして気を附けていますと、私と反対の最も遠い隅に寝ていた、医学者「寺森」と申します者が、私と同じく未だ眠る事が出来ず、徐々(しずしず)と起きて来る様子でございました。

 他の人々は皆鼻息(いびき)の声ばかり高かったので、この人はきっと誰も知らないだろうと思い、私の傍に来て窃(ひそ)かに寝顔の美しさを眺める為に違いないと、私は少し腹立たしくなり、その様な事をすれば思い知らせてやろうと、息を凝らして控えて居りましたところ、果たして私の前には来ましたが、寝顔を見ずに伸び上がって、棚の上の小鞄(かばん)を取り下ろしました。

 さては悟られたと気が附いて、極まり悪さにこの様に紛らわして居るのだろうと私は推量しましたが、そうでは無くて、その小鞄(かばん)を持ったまま元の席に戻り、その人と並んで好く眠っていた画学士茂林と申す者を、無慈悲に起こしました。

 益々異様な振る舞いですので、私は愈々(いよい)よ気を附けて伺って居ますと、揺り起こされた茂林は非常に怒り、
 「何だって人の眠りを妨げる。」
と咎(とが)めると、

 「ナニ、パリで結んだ契約の第四条に由り勝負をするのだ。病気危篤の場合を除き、毎日必ず一回と定めて有る。同じ第五条に由り前回の失敗者が一方を召喚するのだ。君は僕の召喚を拒む権利は無い。」
 「ダッて夜の夜中だが。」
 「だから第七条に夜の夜中であっても目を覚まして、召喚に応ずべしと定めて有る。」

 「でもこの様な汽車の中で何だって先(ま)あ。」
 「イヤ第八条に船中、車中、山の上、砂漠の中は勿論とある。」
と云い、更に無理無体に画学士を揺(ゆ)すぶって目を覚まさせました。画学士は恨めしそうに、
 「君は本気でその様な事を云うのか。」

 「勿論サ。是が為にこの旅行に同行するのだ。僕はもう先日から早く一勝負試み度いと、そればかりを待って居た。」
 「でも勝負の道具が無い。」
 「イヤその積りで用意はこのとおりだ。」
と言って、医師は前の小皮鞄(カバン)から歌牌(かるた)《トランプ》を取り出し、目の前へ差附けると、画学士も我を折って勝負を始めました。

 私は何の事か合点が行きませんでしたが、その中に漸く眠ったので、翌朝になって画学士に尋ねましたところ、医師は以前からこの様な勝負事が大好きで、それに画学士に負け越しと為って居る為め、旅行中毎日一回づつ勝負する約束を定めて、旅に上ったとの事でありました。

 之を聞き私は少々医師殿を見下げました。私や芽蘭夫人の傍に居れば、時間の立つのを忘れ、勝負事などは遠慮すべきですのに、その遠慮さえ無いのは、少々失礼に当たると存じます。」
 以下略す。

 この様にして一同は翌日の午前十一時過ぎに、馬耳塞(マルセイユ)に着き、其の翌日埃及(エジプト)行きの汽車に乗り込みましたが、その中にあって、彼の與助は全く自分の名を捨て、マホメット、ガデルと称し、自分の荷物にまでも総てマホメット・ガデルと云う札を附けました。

 ガデルとは埃及(エジプト)辺では最も普通の名前だと言います。又帆浦女は広い海上に出たのを何よりも喜ばしいと思うかの様に、暇も無く甲板の上を前後に歩み、他の上等船客からは、頭の上でそう足音を立てられてはと、苦情を云われるのにも構わず、高甲板は船客共有の運動場であると言い張って足を休めなかった。

 之と引き換え三学士は、孰(いず)れも度々地中海の船に乗ったことのある身なので、その景色にも飽き、寧ろ退屈の想いに耐えられず、三人ともに帆浦女に対し、深く心ある様な素振りを示そうと申し合せ、平洲は帆浦女に近づく度に、出来るだけ世辞を云い、茂林は異様な目付きを為し、寺森は聞こえよがしに恋人の様な嘆息(ためいき)を発し、三人その技を競いながら、帆浦女が心密かに喜んで、自ら益々美人の積りと為る様を見、陰に廻って互いに突つき合って笑うのを慰みとしたのは、罪深い悪戯(わるふざけ)であるが、旅の徒然と云い、又帆浦女の気質は、ややもすればこの様な弄(もてあそ)びにされる生まれ附きなので、しかたが無いと云うべきか。

 中でも平洲は、更に是れだけに飽き足らず、路程計と言う路里(みちのり)を測る機械を、密かに帆浦女の背に附けていたのを、夜に入って三人に示すと、彼女が一日甲板の上を歩んだ距離は、四十哩(マイル)《74km》だった事を示したので、流石は世界一の健脚家であると、三人は肝を潰して笑い合った。



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