ningaikyou17
人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)
アドルフ・ペロー 作 黒岩涙香 翻訳 トシ 口語訳
since 2020.4.28
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第十七回 勝負を持ちかける寺森医師
船は仏国(フランス)馬耳塞(マルセイユ)の港を帆(はっ)してから、四日目に伊国(イタリア)の寧府(ナポリ)湾へ着いたが、音に聞こえた絶景の所なので、船中の徒然《手持ち無沙汰》に飽々(あきあき)した乗客達は、孰(いず)れも少しの停泊時間を幸いに、先を争って上陸しようとする。
その中でも茂林は画工だけに、景色を写す道具などを用意し、宛(あたか)も籠の鳥が外に出される時の様に、喜び勇んで船から立ち出ようとすると、前からこの様になるだろうと待ち設けていた寺森医師は、静かに茂林の肩に手を置き、
「オッと待ち給え、茂林君、昨日は僕が負けたから、是から復讐(かたき)に取り掛かる。サア来給え。」
と引き立てれると、茂林は当惑千番の顔附きで、
「ナニも君、そう意地悪く、今で無くても好いぢゃ無いか。」
寺森は少しも動かず、
「イヤ今に限る。君が自烈(じれっ)たく思う機会を、先程から待って居たのだ。」
「でもこの様な場合を見込んで、勝とうとは余りひどい。」
「イヤひどいのはお互いだ。昨日君は何うした。朝起きて僕が顔を洗うや否や、直ぐに僕を召喚し、今日は東洋流の指先の拳を選ぶと云い、僕が仕方なく従って、一二三の掛け声で石だとか鋏刀(はさみ)だとか云って、直ぐに僕を負かしたぢゃ無いか。
その間の時間がたった五分サ。僕は一日にわずか五分間くらいの戦いでは、到底満足する事は出来ない。それも朝の間だだから、一日中の楽しみを五分間に奪われて、僕は夜に入るまで退屈で仕方がなかった。サア来たまえ、今日は僕が権利者だ。」
茂林は拝まない許りに、
「では僅かに三分間で好いから、一寸と上陸させたまえ、直ぐに帰って来て召喚に応ずるから。」
と云ったが寺森は頑として、
「イヤいけない、君は契約の第五条、第七条、第八条を忘れたか、忘れたら読んだ聞かそうか。」
最早や云い争う道も無く、
「実に君は意地が悪い。」
と、悔しがりつつ従うと、寺森は甲板中で最も暑い、大煙突の傍へ茂林を連れ行って、照り輝く真昼の天日に身体を晒しながら、選ぶ勝負を何かと見ると、勝負事の中では最も長く掛かると知られる、
「ビージツク」
と云う仕方で、而もその賭け高を僅かに一回一法(フラン)と定めたので、五百法(フラン)まで勝負が附くのは、何時間後か推測も出来なかった。
茂林も意地になり、最初は強いて自ら落ち着き、悠々として構えて居たが、一時間を経て早やその根気が尽き、全身に汗を浴び、目も眩んで札の色さえ見分けがつかず、今日は到底勝つ見込みは無いと言って、幾重も詫びて降参し、漸く病人と為る事を免れたが、この勝負の復讐は如何になるだろうと気遣(づか)われた。
この夜寺森が月に乗じて詩など吟じながら快よさそうに、高甲板を散歩している所へ、茂林は出て来て、
「サア寺森君召喚だ。」
と呼び掛けると、寺森は怪しんで、
「何だ今日は、既に先刻のビージツクで君が降参した癖に。」
「イヤ既に夜の十二時を一分過ぎたから、アレは昨日の事と為った。」
「何だと、夜の十二時一分に勝負を初め、明日の慰みを又奪って仕舞う積りか。」
「何でも好い、僕が権利者だ。サア今度はビージツクの様な長い勝負では無い。唯だの賭け事だ。」
「何の賭けだ。」
「君が今から三分間の間に、この甲板から海の中へ飛び込むことが出来ないと云う賭けだ。若し飛び込んだなら、僕が負けだ。」
と云い、早時計を出して眺め始めた。
寺森はこの巧みな召喚に悸(ぎょ)としたが、故(わざ)と落ち着き、
「面白い、僕が海の中へ飛び込めば僕の勝ちとなるのだネ。」
「そうとも」
「宜しい、五百法(フラン)を賭けよう。」
と答えたまま寺森は悠々として元の様に甲板を漫歩し始めたので、却って茂林の方が不審に堪えず。
「サア寺森君、今の賭けは何したのだ。最う飛び込まなければ、三分の時刻が切れる。」
寺森は苦笑して、
「アアこの賭けは確かに負けた、ノートへ君の勝利と附けて置き給え。」
と温順(おとな)しく降伏するのは、更に輪を掛けて復讐する心が有るが為に違いない。
翌日は何の勝負も無く、寺森は真に退屈で仕方が無かったので、時々恨めしそうに笑って、茂林の顔を睨めるだけで過ごしたが、更にその又翌日となったので、双方ともにこの様な復讐の、余りに穏やかでない事を悟り、流石に親友同士だけに、講和折り合いの相談を為し、毎日勝負は一時間より短かからず、二時間より長くはない事と為し、其の種類も決して健康の害にならない者を選ぶと云う事に定まり、復た復讐が募って行く患(うれ)いも無くして済むこととなった。
七日目にして船はアフリカの北岸である亜歴山(アレキサンドリア)港に着いたが、この辺は欧州諸国交渉の土地なので、アフリカと云うのは名ばかりで、鉄道も有り、貿易も盛んなので、自分の国を旅行するにも均しく、直ちに汽車で海路(カイロ)府まで入り込む事が出来た。
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