巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou19

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.4.30


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      第十九回  拉致された與助

 船は紅海亜拉比(アラビア)の沿岸ジッダに着いたので、一同は昔から聞いていたジッダ市街の有様を観光しようとして上陸したが、ここで非常に悲しむべき一大事が起こった。

 そもそもジッダと云う所は、亜拉比(アラビア)では有名な一都府であるメッカ府から遠くない港場で、この辺一帯は宗教の盛んな所なので古跡も有り霊場も有り、年々この国の諸地方から、巡礼に出る者は、必ずここに立ち寄る事になって居るので、市なども非常に盛んで、欧羅巴(ヨーロッパ)人の目には珍しく見える事物が多いと聞く。

 それで一同は、市内を一巡見廻って、早や日の暮れに差し掛かったので、引き上げて船に帰る事にしたが、唯だ茂林画学士だけは、二三の霊場を略図に写し取って帰りたいと云い、亜拉比(アラビア)風の長上着一枚を着て居る下僕(しもべ)與助と通弁人、亜利とを引き連れ、先づ町外れに行き、人間第一の開祖である、アダムの妻イブを葬ったと云われる拝堂を写し取り、漸く終わって一方を振り向いた丁度その時、町の方から町の廓(かこい)の外である砂漠を指して行こうとする旅人達があった。

 同勢七人の一群れで、中六人は駱駝に乗り様々な荷物を持っているが、一人だけは馬に乗り、此方を差して徐々(しずしず)と進んで来たが、良く見ると純粋な亜拉比(アラビア)の人では無い。長い槍を初めとして野蛮時代に使われた様々な武器の外に、更に旧型の鉄砲まで持って居るのは、以前に物の本などで読んだベドイン族に違いない。

 ベドウイン族は、この国中の最も剽悍(ひょうかん)《素早くて強い事》、最も獰猛(どうもう)《荒くて乱暴なこと》な蛮族で、砂漠、或いは山の中を住家とし、三々伍々《あちらに三人こちらに五人と人が散らばっていること》部族を作り、天幕、馬、駱駝の外には財産は無く、或時は西に住むかと思えば、又直ちに東に移りなどする生き方は、水や草を追って転居した、昔の種族が唯僅かばかり進歩しただけの部族である。

 その職業は狩りをして居ない時は、追剥(おいはぎ)を事とし、旅人を苦しめることが多いけれど、政令の届かない地方であるので、打ち懲らす道も無い。僅かに幸いと云うべきは、この蛮族は市街に入って来て、その暴を働くと云う事は無く、市街へは単に買い物などに来るだけだと云う。

 茂林はこの一群れを見て、又と逢うことが難かしい材料なので、是をも略図《スケッチ》に取ろうとすると、駱駝に乗っていた六人は小休みの為か、駱駝を降りて古い殿堂の横手に隠れ、馬に乗っている一人だけは、蛮族中に在って多少の信仰がある者か、茂林が居る拝堂の傍に来て、礼拝を始めたので、茂林は是れ幸いと筆を取り、大方写し終わった頃、その者も亦殿堂の方を差して立ち去った。

 茂林は更に所々に筆を加えて、その道具などを片付けようとして居ると、この時忽(たちま)ち殿堂の陰の方で一声高く、
 「助けて呉れ!」
と呼ぶ者があった。確かに下僕與助の声なので、茂林は驚いてその方を指し走って行こうとすると、向こうから通訳亜利が、顔色を変えて走って来るのを見るばかり。休んで居た六人のベドイン人も駱駝も與助も、影も形も無かった。

 「何事だ亜利、與助は何うした。」
と問掛ける言葉も忙しい。
 ここに亜利の返事に由って、與助が如何したのかを記すと、彼れはベドイン人の一群れが休むのを見て、自分が亜拉比(アラビア)の服を着ている姿を之に示し、真正の亜拉比(アラビア)人と間違いられ度いとの野心を起こし、更に又たパリにある動物園で駱駝の頚などを撫でた経験が有るので、駱駝の肌を触って見ようと思い、亜利にその事を話した上で、殿堂の陰まで行ったところ、

 ベドイン人の一群れは、與助を心にも留めず、自分達の仲間同士で、何事をか打ち語らうだけだったので、與助は突々(つかつか)と駱駝に近寄り、その背に手を掛けようとしたが、只見ればその駱駝に積んであった荷物の一部分は、全く自分が蘇西(スイズ)で亜拉比(アラビア)人に盗まれたその荷物で、しかもマホメット、ガデルと云う自筆の附け札までその儘(まま)に存して有り。與助は眼を丸くして一群れを罵(ののし)りながら、

 「この泥棒奴(め)、俺の荷物を返せ!」
などと騒ぎ立てると、一群れは與助の言葉を解し得る筈も無く、唯だ怪しむ様子だったので、亜利が進んで、その言葉を通訳すると、一群れは初めてそれと知り、少しの間相談していたが、

 「同じ名は幾人も有る。俺達の名を騙(かた)り、その荷物盗もうとしても、その手には乗らない。」
との意を口々に叫び、更に相手を一人と見て、若しどうしてもと云うならば、腕力に訴えるとの心を示したので、亜利から又もその意味を與助に通ずると、與助は逆様(さかさま)に泥棒と云われる腹立たしさに、火(くわっ)と込上げ、その荷物に手をかけて、駱駝の背から引き卸(おろ)そうとすると、

 一群れは何か目配せをしたと見えたが、この様な事には充分慣れた輩なので、電光石火よりも早く、一同は與助に飛び掛かると、見る暇に早くも與助を荷物と共に犇々(ひしひし)と駱駝の背に縛り附け、そのまま町の廓(かこい)に設けた門を潜(くぐ)り、駱駝を走らせて、雲を霞と砂漠の方を指して逃げ去ったとの事だ。



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