巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花、青空菜園、晴耕雨読、野鳥、野草

黒岩涙香の巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花の口語訳、青空菜園、野鳥・花の写真、ピアノ、お遍路のページです

ningaikyou28

人外境(にんがいきょう)(明文館書店 発行より)(転載禁止)

アドルフ・ペロー 作  黒岩涙香  翻訳  トシ 口語訳

since 2020.5.8

a:233 t:1 y:0

下の文字サイズの大をクリックして大きい文字にしてお読みください

文字サイズ:

      第二十八回 諦められた與助

 與助の生死は定かではないとは云え、前後の事情から考えて見れば、九分までは死んだ者に違いない。彼の様に食物の用意さえ無く、炎天に砂漠の中を逃げ走れば如何ほど健康の人と雖も、渇(かわ)いて死ぬか、飢えて死ぬか、将(は)た又疲れて死ぬか、此の三つを免れる事は難しい。

 況(いわん)や彼の通った道筋に、前後二回まで疾風が起こったからは、半死半生の彼の身で、逃げ抜ける事が出来たとは、到底思はれない所である。彼は九分九厘、否十が十まで、此の世の人では無いと、一同は心の底にこの様に思ったが、誰もそうと口に出す勇気は無く、唯だ額を集めて考えるだけだったが、寺森医師は平洲、茂林両人に向かい、

 「イヤ未だ疾風が治まったか治まらないか、それさえも分からないから、ここで何と考えたところで仕方が無い。兎に角君達は、昨夜来のアノ骨折りで、たとえ心は張り詰めて居るにしても、身体は余ほど疲れて居るから、明朝まで眠り給え。今眠らなければ何の様な病気に成るか分からない。

 僕は医師の職業を以て忠告する。孰(いず)れにしても明朝までは、何の工夫を施す事も出来ないから。」
と云うと、領事も芽蘭夫人もそれを最もとし、二人に懇々とその事を勧めると、二人も全く自分の身体が最早や耐える事が出来ないほどに疲れている事を感じて居る際なので、勧めに従って寝室へ退いた。

 独り寺森医師は、数年来歌牌(トランプ)に耽(ひた)り、二夜三夜の夜明かしはしばしば試みた事があるので、他の二人ほどは疲れて居ず。後から愁々《深く悲しむこと》として退くに、先ほどから一同の話を聞いて居た帆浦女は、まだ飽き足らないと見え、後を追って来て、

 「寺森さん、貴方もきっとお疲れでしょう。」
と言い掛けると、
 「ハイ途中では早く帰って眠り度いと思いましたが、こうして貴女のお顔を見れば、疲れも眠さも殆ど忘れました。」
と答えた。是れは兼ねてから茂林、平洲、寺森の三人が、旅の徒然を紛らわす為め、帆浦女に戯むれる口調で、殊更保浦女を嬉しがらせ、その益々自惚れるのを見て、楽しみとする癖になっていたので、今は寺森は故(わざ)とこの様な優しい言葉を吐いたものである。

 場合が場合丈けに、帆浦女は毎(いつ)もよりなお一層嬉しそうにし、更に此の医師を引き留めて、茂林を救った現場の有様などを、種々に問うたが、何さま深く寺森の言葉に感じ入った者と見え、夜に入って此の女が、郷里の親友に宛て認めた手紙の一節に、

 「三人とも無事に帰り来たったのは嬉しく、今は三人悉く私の奴隷とも云う有様で、唯だ私の機嫌を取ろうとばかり勤める中に、寺森医師は最も優しく、私もその情にひかされ、今は彼の人の歌牌(トランプ)の癖をまで許す心と成りました。

 取り分け三人の中で、この医師だけは疲れも軽い様子で、健脚家と名を取っている私には、この様に容易に疲れない人が、最も頼もしく思われます。」
云々と記して有ったと言う。又以て帆浦女が如何なる心の女であるかを知ることが出来るだろう。

 是れから数日の間は、この女の目は、最も多く寺森医師に注いだと云う。
 それはさて置き、翌朝茂林と平洲とは起き出して廊下で顔を合わせ、歩むとも無くなく共に歩んで、庭の樹影(こかげ)に行ったが、茂林はまだ與助の身を気遣って、少し沈んだ様子が有ったが、昨日の疲れ丈は全く忘れたようであったので、平洲は微笑んで、

 「茂林君、君が與助の後を追って、唯だ一人砂漠の闇へ馳せ入った勇気には感心したよ。」
 「イヤそれよりも、君が砂漠の夜道を冒して、僕を救いに来たその勇気と親切にはもっと感心だ。」

 「所が僕の行いは勇気でも親切でも何でも無い。本当を云えば何うか君が野蛮人に殺されて仕舞えば好いとこう祈って居た。君が死ねば僕一人の戦場で、芽蘭夫人は競争者無しで僕の手に落ちる訳だからサ。実に君を救いに行くのが、否で否で堪らなかったが、唯巴里(パリ)を立つ前に君と紳士らしく、友人らしく正常に競争すると云う約束を結んだから、其の約束に対し遺憾ながら救いに行ったのサ。」
と云って、最も快活に打ち笑えば、茂林も同じく笑い、

 「君がそう打ち明ければ、僕としてもナニ勇気が有って砂漠へ入った訳では無く、実は芽蘭(ゲラン)夫人から、善心善行を以て競争しろと云われて居るので、一番君を出し抜いて勇気を示し、芽蘭夫人に感心されようと思ったから、深く前後の思慮も無く、危い地へ踏み込んだのサ。

 何しろ巴里を出て以来、夫人の心が余り公平で君にも僕にも傾かないから、ズット僕の方へ傾ける積りでやった。それだから僕は野蛮人に殺され掛けて居る間も、何うかして助かって帰れば、夫人の心がきっと僕の勇気に傾くだろうと、内心嬉しい気もせられた所へ、君が救いに来てアノ通りの大手柄を現したから、僕は嬉しくも有り悔しくも有った。

 さては平洲奴が俺より一層上の勇気を見せ、俺よりも感心せられるのかと本当に妙な気がしたよ。」
と云って又笑うのは、二人とも流石芽蘭夫人に見立てられた丈け、非常に快闊な天性にして、又と得難い男の中の男と云うべきだ。

 この様な所へ芽蘭夫人は、領事と共に非常に心配気に語らいながら現れ来たので、二人は斉(ひと)しく其の傍へ進み寄ると、領事が先ず口を開き、
 「もう下僕與助の行方は捜す丈け無益ですよ。」
と云う。



次(第二十九回)へ

a:233 t:1 y:0

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

巌窟王、鉄仮面、白髪鬼、野の花